ブルーマウンテン   加村 政子

 母の三回忌は寂しいものだった。父の兄弟も母の兄弟も、もうこの世に残っている者は誰もいないわけだから、仕方がないといえば仕方がないが、それぞれの家の跡継ぎである従兄たちは、高齢で死んだ伯母の死後のことまで、関心を持ち続ける気などなくなってしまったのだろう。

 名古屋で暮らしている兄と福岡にいる弟の家族が来てくれたほかは、友人の昭子が手伝いに来てくれただけだった。葬式の時は兄や弟の会社関係の者や千代子の同僚だった友人たちが大勢集まってくれたが、二年経った今では、もう母の存在はすっかり消え失せてしまっている。

 母が生きた八十三年の生涯は、幸福だったのだろうか。

 母に反発ばかりしていた千代子に、最後の一年半を和解の時間として与えてくれたのは救いであった。ぎくしゃくと噛み合わずに、いらいらしながら一緒に暮らしてきたが、終わってしまえば、何ということもないほどあっけない別れだったと思う。

 だだっ広い座敷で眠る時に、瞼の奥に浮かぶ母の顔は、時には鬼であったり夜叉であったりして脅かすが、朝目が覚めると、弱々しい顔で千代子に甘える母の声が、耳の底から残響のように湧きのぼってくる。

 重くて煩わしいと思っていた母が半身不随になってから、千代子はかたくなだった自分の心が、柔らかくなって溶解していくのを感じた。母が千代子を受け入れてくれたように、私は母を許していたのだろうか。

 母が死んで一人になると、自分でも思いがけないほど深い喪失感に襲われた。自分だけの自由な時間を持て余し、暫らくは何をする気にもなれなかった。
「あなたは仕事を辞めてまでお母さんのお世話をしたんだから、もう十分よ。お母さんも満足してると思うわ。そんなに力を落とさないで、元気出してよ」
 友人の昭子が慰めてくれたが、母に反抗してきた記憶が、痛みと悔恨を伴って蘇るのだ。

 千代子には、青春といわれるような時代はなかった。躾に厳しい母に外出を制限され、遊びは全て禁止された。母は二言目には、よその家とは家柄が違うといい、品のない言動を慎むようにといって監視された。

 兄や弟にはそれほど厳しくはいわないのに、娘の千代子には特に厳しかった。

 地元の短大に行っても、門限は六時と決められていたから、友人とくだけた付き合いをする暇もなかった。母の価値観は、家を核とした誇りを拠り所にしていたようだ。

 母は大地主の娘として気高く育てられ、武家の血を引く藤田の長男と見合い結婚をした。千代子の父親である。母は実家から連れてきた女中に子供の養育を任せて、家の奥で優雅に暮らしたものだといっていた。千代子が物心つく頃は、もう女中も作男もいなかったから、母がいう優雅な時期はあまり長くは続かなかったのだと思う。

 日本の敗戦は、古い価値観に凝り固まっていた人々を打ちのめしたに違いない。農地改革で大方の田畑を失い、家督制度が崩壊しても、父や母の気位だけは失われなかった。失われなかったというよりも、家柄とか格式という目に見えない誇りを支えに、気位高く振舞っていたのだと思う。

 母は年頃になって持ち込まれる千代子の縁談を、家の格が違うだの悪いだのといって、ことごとく潰していった。

 兄が就職した土地で恋愛結婚した時も、私の目の黒いうちは家の嫁とは認めないといって、親子の縁を切ってしまった。母ほどではなかったが、父も名古屋まで相手の素性を調べに行き、長男があんな女と一緒になるというのなら、もうこの家もおしまいだといっていた。

 日頃は温厚な父が憔悴しているのを見て、千代子は親不孝な兄を恨んだものだった。まさか実の親子が、縁を切られたからといって、何十年も憎しみあうとは思ってもいなかったが、兄嫁の気持ちを冷たく閉ざしてしまったのは全て母に責任がある。いくら気位が高くても、人を見下していいわけがない。兄嫁は、炭や薪を商っていたという実家の両親を、士農工商でいう所の最低の人間だときめつけられたのである。彼女は父の葬儀にも母の葬儀の時にも、顔を見せなかった。

 父が亡くなってからの母は、だんだん勢いがなくなり、気弱になっていった。だが母が弱くなっていくほど、兄嫁はうとましく感じていたようだった。千代子がそうだったから、気持ちが分からなくもないが、死んでも逢いたくないというのも、意固地過ぎではないかと思う反面、血の繋がりのない気楽さが羨ましくもある。

 いつ頃からか、千代子は父も母も、兄たちでさえ、身内は当てにならないものだと諦めていた。人間はみな自分のことしか考えない身勝手な生きものだと思う。

 父が死んで家の名義を変える必要に迫られた時、兄も弟も母の名前にすればいい、とまるで相続権を放棄するとでもいうようにそっけなかった。だが母が死んだ後、独身のまま家に残った千代子に、全て譲るとはいわなかった。教師をして母の最期を看取った千代子は、子供のいない老後に不安を覚えないわけではなかった。広いだけの古い家は、建てつけも悪く、雨漏りがするたびに応急の修理をしなければならなかったから、売れるものなら売って老人ホームにでも入ろうか、などと考えたこともある。それでも兄と弟から、家屋敷を売って財産を三等分しようといわれた時は、それまでの鬱屈していたものが爆発して、この家は私が買い取ります、と叫んでしまった。もうこれで、本当に一人になってしまった、と思った。

 その時、何故か母が悪いからこういう結果になるのだ、と頭の中に母の像を無理矢理引きずり出して恨みをぶつけ、辛うじて平静さを保っていた。

 何か事あるごとに母を恨み、うとましく思いながら、最後まで離れられなかったのは何故だろうか、と何度も考えたことがある。

 誇り高くて威圧的だった母と千代子の関係が、逆転したのはいつ頃だったか、はっきり覚えていない。母は、千代子が四十近くになって、もう一生結婚できないのではないかと思ったのではないだろうか。その責任が自分にあると自覚していた母は、娘の将来を不憫に思ったに違いない。あんたは女なんだから、家のことは心配しなくてもいいのよ、と暗に結婚を勧めるような口振りでいったことがある。誰かいい人はいないの? と遠慮がちに探りを入れたこともある。

 そのたびに千代子は、そんな人いるわけないじゃないの、お母さんの眼鏡に適うような人は、今の世の中には、いないんだから、といって毒づいた。

 家柄や血統を重んじて反対していた母を、納得させる相手がいなかった、と口ではいっていたが、千代子には結婚をためらう大きな理由があった。

 短大で国文学の教授だった酒井恒夫とは、もう何十年もつかず離れずの関係が続いている。結婚とか同棲とかという生臭いものとは違う、清らかな愛の形であるが、千代子はいつも身辺に酒井の息吹を感じていた。

 酒井は千代子の短大時代の恩師である。千代子は入学後、この小都市では歌人として有名な酒井に憧れて、教えを受けるようになった。背が高く、黒々とした髪を揺するように颯爽と歩く酒井は、女子学生の人気を集めていた。

 卒業後、酒井が主催する歌誌”青風”の同人となってから、どちらともなく引かれあっていった。老人に近いような同人の中にまぎれ込んだはたち過ぎの千代子は、落ち着きはらった訳知り顔の目にさらされて、怯えてもいた。父や母に厳しくしつけられて、男と乱れた付き合いをしたことがない千代子は、初めて知る恋を、ひた隠しにする秘密を味わっていた。

 妻と二人の子供がいる四十過ぎの酒井は、千代子とは実りのない恋だと分かっていながら、熱に浮かされたように恋歌を作り、歌壇に発表した。

 短歌の世界では、たちまち二人の噂が広まった。噂は母の耳にも入り、ある日仏壇の前に正座させられて激しくなじられた。
「恥を知りなさい!嫁入り前の娘がふしだらな真似をして世間の笑い者になるなんて、家の恥です!」
 母は眉間に深い皺を立てて目をつり上げ、蔑んだ光を浴びせてののしった。その時千代子は初めて母に反抗した。
「そんなにひどいことをいわれるようなことは、絶対にないわ。いいわよ、そんなに私が信用できないんだったら、この家からもこの町からも私は出て行く。どこか遠くにでもいけば、酒井先生とも逢えなくなるから、それでいいでしょう?そうすればお母さんだって、せいせいするでしょう……」
 思いがけないほど激しくせり上がってくる言葉に煽られ、意識の底に潜んでいた願望が噴き上がってくるのを感じた。どのみち結ばれない恋を、いつか振り払って忘れなければならないという気持ちも、母の束縛から逃れたいという気持ちも、出口を見つけて胸の内に渦巻いていたのだ。
 家名を穢すとか家の恥とかを口にして、娘の恋を侮辱する母に対して、身の潔白を証明するために家を出ると宣言したのは、母に似た気位の高さがそういわせたとしか思えない。

 小学校の教師になっていた千代子は、翌年の春、希望して沖縄の喜界島へ赴任していった。
 父も母も引き止めようと、校長に直接逢って哀願したが、本人の強い希望で決定したものは、どうしようもないといわれて、諦めるしかなかった。
「本当に君は行ってしまうのか、信じられないよ、君が僕の前からいなくなるなんて、考えたくもない」
 広い胸の内にすっぽり包み込まれて、髪をまさぐりながら愛撫する指の感触を、千代子はいつまでも忘れられなかった。鉛筆を握って文字を書こうとする時、ふっと酒井の指を思い出して胸が疼く。
「君のことは一生忘れない。僕は死ぬまで君のことを、大事にだいじに思ってゆくよ」
 別れる前にいった言葉が、本当に何十年も続くとは、その時は思いもしなかった。
 今別れなければ、酒井の社会的な地位も、妻や子供と暮らす家庭も脅かしてしまう。これ以上深入りすれば、母に何をいわれるか分からない。漠然とした不安を打ち破って、新しく出直すために、誰の手も届かない所へ逃避するしかない、と思って決断したのだったが……。

 喜界島で過ごした三年間は、ひ弱だった千代子の体も心も、頑強に作り替えてしまった。生きるために必要なことと、不要なことがはっきりしている島の暮らしは、若い女の虚飾を剥ぎ、些細なことに動じない逞しさが備わってきた。本島に戻って鹿児島の学校に十年勤めた後、郷里に帰ってきた。千代子は三十五歳になっていた。

 母の元を離れて暮らした十三年の間に、千代子は大きく変わってしまった。以前のように母の言葉に怯え、黙って耐えることで抵抗していた頃の娘ではない。同僚と酒を飲んで騒ぐ楽しみも覚え、ふらりと当てのない旅にも出かけていった。
 それまで夏や冬の休みに帰ってくるたびに、結婚話を持ち掛けていた母も、望み通りに育っていない娘を目のあたりにして、落胆していたのではないだろうか。
 もう見合いの話も全くしなくなった。その代わり、電話の相手や男の友人に関心をもって探りを入れ、いつまでもしつこく問いただす。

 家に戻った三十五歳から四十歳ぐらいまでの間が、一番煩わしい時期だった。年下の同僚が結婚して家庭を持ち、晴れやかな笑顔を振りまいていたと思うと、何年もしないうちに疲れ切った暗い顔に変わる。
 結婚に夢を描くような若さはもうなくなっていた。
「あなたは理想が高すぎるんじゃないの、気位の高い女って、男は息がつまるものなのよ」といった友人がいた。
 自分では気付かないが、他人からそういわれてみると、最後の一線を越えて崩れ落ちる勇気がなかった。それもこれも、母の監視下から逃れられない身の、自縛だったのかもしれなかったが……。

 酒井が年二回発行する歌誌“青風”は、何人もの才能ある歌人を育てていた。千代子が勤務する学校の教頭も、酒井の弟子として“青風”に短歌を発表している。
 教頭が酒井と千代子のことを、どの程度知っているのかは分からない。作歌するのをやめても、千代子は密かに“青風”を求めて読み続けていた。

 酒井が発表する短歌の中には、千代子とわかる女性を恋うるものが何首か詠まれていた。注釈をつけて、自分の内なる女神だと位置づけ、生きる力にしているというふうに扱われている。もういい加減にして欲しい、と酒井の執着をうとましいと思いながら、悪い気はしなかった。若い頃、恋の情熱に浮かされて、身も心も交わったのは、ほんの数えるぐらいでしかなかったのに……。

 酒井が定年で退官した後、上梓した本の出版記念パーティが開かれた。招待のはがきを受け取った千代子は、その会場で酒井と再会した。人の目を気にして後ろの方に立っていた千代子は、ライトを浴びて颯爽と立ち現れた酒井を見て驚いた。胸に大きなバラの花を挿し、ポケットにレースの白いハンカチを覗かせている。黒々とてかる頭髪は昔のままだったが、浅黒い顔には深い皺が刻まれていた。盛り上がった眉の下の窪みから、大きな目が剥き出されて光っている。その顔のどこにも、晴れがましい喜びの笑みはなかった。
 立食パーティに出席した人々の中に、千代子が知っている顔が何人かいたが、寄って行って話し合う間柄の知人でもない。酒井の周りを取り囲む人たちが、入れ替わり立ち替わり流れていっても、酒井の立つ位置は変えられない。
 宴も終わりに近くなり、そろそろ会場を抜け出そうと思っていた時、酒井が突然ライトを背にして歩みよって来た。千代子の前で立ち止まると、
「来てくれたんだね、ありがとう、ありがとう」
 と恥ずかしそうに目尻を下げて笑った。
「先生、お久ぶりです、お元気そうで……。今日はおめでとうございます」
 千代子はそれだけいうのが精一杯だった。集まっていた人の目が、二人に集中して注がれているのがわかった。
「君はまた歌を書きなさい、きっといいものができるよ、歌で自分を表現するんだ」
「はい、いいえ、わたしはもう駄目です。もう枯れてしまいました」
「何をいっているんだ。人間は死ぬまで生きているんだ。枯れてなんかいられないんだよ、君はまだ若いんだ」
 酒井は千代子の目を見ながら、奥歯を噛んで両頬の端をぴくぴく動かし、それ以上は何もいわずに去っていった。首を前に倒して、うつむき加減に歩いていく背に、暗い影が貼りついているような気がした。この人は何か途方も無い苦労を隠し持っているのではないか。
 そう思った千代子の勘は間違いではなかった。数年前から妻が痴呆の症状を見せはじめて、酒井は外出もままならないという噂が耳に入ってきた。
 学校の内外では、酒井の噂をする人たちが何人もいる。歌人として名の通った酒井は、地方誌に随筆を書いたり、報道関係者にコメントを求められたりしていたから、その身辺に興味を持つ者が、尾ひれをつけて噂を流しているのだ。
 酒井の歌の中に、呆けた妻をみつめる慈愛を詠ったものや、妻に詫びつつ介護する夫の心情を詠ったものが、次々と発表されるようになった。
 歌誌“青風”の編集は若い弟子に譲り、酒井は前にもまして歌に熱中しているらしかった。痴呆の妻と、その妻を献身的に介護する夫という構図は、短い言葉では語りつくせないほど、すさまじい地獄の様相へと発展していったようだ。
 そんなざらついた作品の中に、時に異質なものが挟み込まれていた。千代子への愛が、今も変わらぬ心情として詠われているのだ。千代子は男の純情と狡猾さに辟易しながら、では自分の本心はどうなんだ、と問い掛けてみる。あの時、もし酒井に妻子がいなかったら、当然恋の成就として結婚したいと思っただろう。或いは、妻子を捨ててでも一緒になろうといわれれば、そうしていただろうか。千代子には母が、酒井には妻子がいたから、こういう運命を辿るしかなかったのかもしれない。そう思うと、普段は忘れている酒井の影が、重くのしかかっているのを感じた。




 母が脳出血で倒れたのは、八十歳の誕生日だった。
 母の誕生日に、千代子は初めて名前入りのバースデーケーキを買ってきた。娘を頼るしかない母は昔と逆転した地位に甘んじ、千代子の顔色を窺い、機嫌を損なわないように気を遣っている。それでも、千代子が尊大な態度で叱責すると
「親に向かって何ということをいうの、よおく考えてみなさいよ、あなたは教育者でしょうが」
 といって、睨みつけ、一歩も引かなかった。そこまでいえば千代子がひるむのを知って、言葉の太刀をかざすのだ。
 その夜は極上の鮨と茶碗蒸しをとり、じゅんさいとふ入りの味噌汁を作った。ケーキにろうそくを八本立て、電灯を消して、炎に揺れる母の顔を見ながらハッピーバースデーの歌をうたった。今まで酒を口にしたことがない母が、ワインを飲んで顔を赤らめている。子供の頃、毎年ケーキとサイダーで祝ってくれた母だった。その母が子供に還っている、と思うと、急に切ないものが込み上げてきて、涙ぐみそうになる。
 母は嬉しさを満面に表して鮨を食べ、ワインを飲んだ。さあ、あまり酔わないうちに寝る仕度をしようといって立ち上がり、よろよろと座敷に歩いていってくずおれた。驚いて母の体に被さり、呼び掛けても返事をしない。足元の畳に生温かい尿が広がった。失禁するというのはただごとではない。
 千代子は救急車の手配を頼み、その間に母を上向きにしてパンティをはぎ取った。タオルで濡れた下半身を拭い、新しいパンティをはかせてやる。
 高いびきで昏睡している母を、このまま死なせてなるものかと、千代子は何者かに祈った。やっと素直な気持ちで、これから母を労っていこうと思ったばかりだったのに……。
 到着した所が救命救急病院だったのが幸運だった。夜中から翌朝にかけての大手術で、母はようやく命を取り止めることができた。
 意識が戻った母は、左半身が麻痺していた。若い人ならリハビリ訓練をすれば、杖で歩行も可能になるといわれたが、入院中ベッドに寝たきりだった母は、手足の関節が固まって、ちょっと動かすだけだけで痛がった。
 言語機能に異常はないのに何も喋らず、暗い目をして顔にも表情がない。医師や看護婦のいうことは分かっていても、返事もしない。毎日勤務が終わって病院に行っても、張合いがなかった。
「リハビリを頑張れば元気になるのに、おばあちゃんはどうしてやらないの、元気になりたくないの? え? 娘さんが心配しているのに、困らせたいの?」
 毎日ベッドの傍らで無神経な言葉を浴びせられるのは、気位の高い母には耐えられなかったに違いない。
 母を励まし、リハビリの訓練をさせるには、仕事を辞めて付き添うしかない。千代子は定年を二年余り残して退職した。退職して最初に考えたのは、高齢者に優しい病院を捜すことだった。病状が安定して、これ以上高度な治療が必要でなくなれば、楽しくリハビリできる所に代わりたい。
 友人の紹介で、母は老人専門のO病院に転院した。
 海岸沿いに建つO病院では、看護婦のほかに大勢のヘルパーが介護に当たっている。院長や総婦長の教育が行き届いているらしく、職員がみな明るい笑顔で接してくれる。病院のあちこちに「和顔愛語」と書かれた色紙が飾られていた。
 O病院に移ってからの母は、見違えるように元気になっていった。毎日昼前からやって来る千代子に、母は
「学校はどうなってるの、あまり人に迷惑を掛けたらいけないんじゃないの」といった。
「もういいのよ、学校は辞めたの、これからは毎日私が面倒みてあげるから心配しないで」
 ぼ〜っと千代子の顔を見上げていた母の目から涙が溢れ、くしゃくしゃと顔の皺をふるわせて泣いた。
「お母さん、早く元気になって家に帰ろう、私は家に一人でいるの、淋しいよ」
 千代子は三十五歳から二十三年もの間、母と離れたことがなかった。急に母がいなくなった家に一人でいると、ガランと広い教室に立たされているように心細い。
「こんな体になって迷惑をかけるなんて、本当にすまないねぇ、いっそのこと、倒れた時に死んどけばよかったのに……」
「お母さん、娘に遠慮することないじゃないの、私は一人身なんだから、誰にも迷惑掛けるわけでもないし」
 母は毎日厳しいリハビリに耐え、装具をつければ杖で歩けるようになった。病人の人格を尊重して、優しく介助する職員たちの熱意が、障害を克服して生きようとする意欲を引き出すようだった。
 半身麻痺は回復しなかったが、母は一年余りの入院を終えて家に帰って来た。
 それからの半年間は、母にとっても千代子にとっても、最も切なくて甘い濃密な日々の暮らしであった。突然、母が風呂場で倒れて死んでしまうまでは──。
 沸かしてもいない風呂場に入って、母は何をしようとしていたのだろう。もしかしたら、母は自殺しようとしていたのではないだろうか。
 千代子は頭が混乱して、あらぬ妄想を巡らせ、ごめんなさい、ごめんなさい、と母に取り縋って泣いた。
 尽くせるだけ尽くして、母の面倒をみてやろうと思っていたのに、それが母には負担だったのではないだろうか。母のあっけない死が、どうしても受けとめられなかった。

 夕暮れる頃になると、母は決まって千代子の顔色を窺いながら、小声で聞いた。
「私のために学校を辞めてしまうなんて、本当に悪かったねぇ」
── いいのよ、もう年金もあるし、体がきつくてもう、辞めようと思っていたのよ ──

「私が反対ばかりするから結婚しなかったの? いい縁談も沢山あったのに」
── それもあったかも知しれないわ、でも縁がなかっのよ、面倒くさいっていうのもあったしね ──

「酒井先生のこと好きだったんでしょう、お父さんも私もあんなに怒ることなかったのに、とうとうあんたを家から追い出してしまった。私は今でも後悔しているよ」
── そうよ、たった一度の激しい恋だったわ、でもこればかりはどうしようもなかった ──

「私が死んだ後はどうするの、今からでも好きな人がいたら、一緒になってもいいのよ」
── この年で結婚できるわけないでしょう、今更妙なこといわないでよ ──

「一生独身のまま子供も持たないで、親の面倒を見る羽目になって、本当に可哀相だねぇ」
── 子供だけは欲しかったわ、子供がいなきゃ私がこの世に残すものは何もないからね、生きたっていう証がなくなるっていうのは、ちょっと淋しいことかもね ──

 ぽつりぽつりと呟くように話しかける母に、まともな返事をしたことがない。その時々に思う台詞は胸の中にしまい、あいまいに笑ってごまかした。遠慮がちに千代子に詫びながら自分を責めている母に、これ以上追い打ちをかけるのは忍びなかった。
 もし母が病気で倒れなかったら、千代子は母を恨むだけの人生だっただろう。実際には日常生活の全ての面倒を見てもらいながら、老いてゆく母を厄介に思い、死ねばほっと安堵するような薄情な娘で終わっていたかも知れない。
 千代子は仏壇の前に座り、母の遺影に手を合わせて詫びた。仏壇には先祖代々の名が記された過去帳が立てられている。この仏壇もこの家も、千代子が死ねばもう跡形もなくなってしまうのだろう。
 延々と親子が繋がって受け継いで来た家というものは、現在の世の中では何の価値もないほど変化してしまっている。この家も、千代子の代で終わるのだ。






 母の一周忌が過ぎた頃から、千代子は少しずつ心が癒されていった。もともと信仰心の厚いほうではなく、むしろ懐疑的であった千代子は、父も母も胸の裡におさめて祈る供養の仕方が、自然ではないかと思っていた。
 仏壇に宿って子孫を見守る霊魂など、信じられない。
 千代子はいつも心の中に父や母を感じ、ふうわりと優しい気持ちが湧いてくるのを感じた。庭の草花を美しいと思い、枯れたすすきを添えて床の間に生ける。母が若い頃着ていた紬の着物を着て美術館に行き、帰りに喫茶店に入ってコーヒーを飲む。ゆったりと流れる時間に浸りながら、千代子はささやかな幸福と漠然とした不安を感じていた。
 還暦を過ぎると、過去の全てから解放され、新しく生き直して行けるような予感もする。
 千代子はまた手慰みに短歌を作りはじめた。どこの結社に入るでもなく、気に入った歌が出来ると、新聞の歌壇に投稿した。投稿したものが何回か紙上に出るようになると、昔の同人たちから手紙やはがきが届くようになった。教師をしていた頃の同僚からも電話がかかったりして、孤独だった千代子の周辺に、世間の波が打ち寄せてくるようになった。
 ある日、友人の昭子が、一冊の本を持って尋ねてきた。昭子は教師仲間の友人で、一時期、“青風”に所属して短歌を出していた歌人でもある。
「この本読んだ?」
 昭子が差し出した本は「闇夜に慟哭」と題した酒井の本だった。
「あなたが元気になってよかったわ、元気になって歌を始めたんだから、もう大丈夫よね」
「どうしてこの本を私に?」
「あら、あなたが酒井先生の心の恋人だってことはみんな知ってるわ」
「そんな……。もう四十年も昔の話よ、私だって忘れてるのに、世間の人は忘れてくれないのかしら」
「純愛の一種だと思って興味を持ってるんじゃないの、だって公の席でも僕の心の恋人は藤田千代子だって平気でいうんだもの。人の迷惑も考えないのは先生の癖よ」
「…………」
「今体調を崩して入院しているらしいわ、あなたもこの本を読んだら、先生の正体がわかると思うよ。」
 酒井が“青風”に歌や随筆を書いているのは読んでいたが「闇夜に慟哭」という本はまだ読んでいなかった。もう酒井のことは、遠い過去の人として、千代子の脳裏から消えてしまっていたのだ。
「闇夜に慟哭」という本の内容は、衝撃的なものだった。呆けた妻が裸足で徘徊し、後を追って捜し回る様子や、汚物を撒き散らしてわめく様子が細かい観察で描かれている。酒井の経歴や結婚生活を記述した後半は、ほとんど妻と妻の世話をするお手伝いさんの行状で埋められていた。そして、縋りつく妻を抱きながら、闇の夜空を仰いで慟哭する。
 何ともやりきれない介護の記録でもあり、悲運を嘆く身勝手な男の叫びでもある。
 千代子は母が入院していた時のことを思い出した。痴呆老人の問題行動は、必ずそこに理由があり、周りの人の寛容な態度と優しさで、ほとんどの場合改善されるというのに……。酒井の偏見で、古い体質の病院や施設に入れるのを拒み続け、自宅での介護にこだわるから、こんな地獄のような惨状に陥ってしまうのではないだろうか。母が入院していたO病院で、高齢者の心理と介護の技術を学んだ千代子は、昭子とは全く違う感想を持ってしまった。何とか打開の方法を考えなければ総倒れになってしまう。
 十日ほど逡巡した後、千代子は昭子に電話して、酒井が入院している病院を聞いた。
「一人で見舞いに行って大丈夫? 一緒に行ってあげようか?」
 昭子は何を心配しているのかと思うとおかしかった。しかし、後で考えてみると、その時から千代子の運命は途方もない方向へと傾いていったのだったが……。
 酒井は病院の特別室に一人で入院していた。ドアをノックして入っていくと、窓際に寄せた車椅子に座っていた酒井が、ゆっくりと振り向いた。
「おお、千代子さんか、ゴッホッ、ゴッホッ」
 久しぶりに再会した酒井は驚くほど変わっていた。八十二歳にもなれば無理もないが、痩せて骨張った顔には、老人斑が浮き、首筋の皺がたるんでよれている。黒々としていた髪は真っ白になり、オールバックに撫で付けて肩の所で揃えている。パジャマの上にカーディガンを羽織り、背筋を伸ばしている格好は、病み衰えた病人のようには見えなかった。
「先生、お元気そうで安心致しました」
「オッホン、ゴホゴホ、いやあ 肺炎がひどくなって、もう少しであの世へ行く所だったよ」
 喉に痰を絡ませ、咳き込みながら話す声にも力がない。入歯ががくがく鳴って、今にも外れそうに見える。
「奥様はお元気ですか、この間、本を読ませていただきました」
「そうか、あの本を出してから、色々といってくれる人がいてね、ゴボッ、家内は今O病院に入っている」
 O病院は母が最後まで世話になった病院である。そこでなら酒井の妻も安心して療養できるだろう。本を読んで千代子と同じように酒井に進言する人がいたのだ。
「僕ァ早く退院したいと思っているんだが、足が弱ってしまってね、歩く練習をしろってうるさくいわれるんだ……。理学療法士とかいう若いのがいばりくさって、人に命令したり叩いたりするんだ。全く人をバカにしとるよ、ゴホゴホッ」
「リハビリ訓練をしたら、またお元気になりますよ、私の母は左半身が麻痺したのに、杖をついて歩けるようになったんですから」
「この病院のリハビリは、猿の調教みたいなもんだ、人前で無理矢理訓練させるんだからね、ゴッホン」
 酒井は容貌こそ変わっていたが、頑固な気性は今も変わっていない。
「君のことは風の噂で聞いていたよ。新聞で君の歌を読んだ時は嬉しかった。僕ァず〜と君のことを心配していたからね。昔のままの君を見て安心したよ」
八十二歳という高齢でまだ若い気でいるのは、不幸なことかもしれないと思った。
「私に何かお手伝いできることはないでしょうか」
「ありがとう、そういってくれるだけで十分だよ、僕ァ君が幸福でいてくれたら何もいうことはない、ゴッホン」
 酒井は千代子が持ってきた缶コーヒーを飲みながら
「ここの食事はまずくてね、ジュリアナのパンが食べたいなあ、あそこは二代目がおいしいパンを焼くんだ」といった。千代子はほっと気がほぐれてくるのを感じて笑った。母は幼い頃食べたというアップルパイを欲しがった。うかつにも病院に入るまで、母の好みの菓子を知らなかった千代子は、おいしそうなアップルパイを見つけると、買っていって一緒に食べた。
「今度くる時は、ジュリアナのパンを持ってきましょうね」
 千代子が考えていた痴呆老人の介護の話は、とても持ち出せるものではなかった。
 酒井の妻がO病院に入院したのなら、問題は一つは解決したといえる。もう酒井は、闇夜に慟哭することもないだろう。だが妻の痴呆が回復する見込みが全くないとすれば、やはり酒井の今後が気にかかる。自宅に来て妻の介護をするお手伝いさんとも協調できない酒井の性格は、今更変えられるものではない。
 千代子は家に帰ってからも、酒井のことが頭から離れなかった。退院して家に帰ったとしても、面倒を見る家族はいないのだ。





 千代子は昭子に電話を掛けて見舞いの報告をしてから聞いてみた。
「先生の息子さんたち、帰ってきて親の面倒を見るとか考えないのかしら」
「駄目だめ、あんな頑固おやじの世話なんか、出来るわけないじゃないの、まだ奥様が家にいる時、二人の息子の嫁が交替で帰ってたらしいのよ、でも、先生が何だかんだっていちゃもんをつけて追い帰したらしいわ、自分は何もしないくせに、人には完璧を要求するんだから、誰も寄りつく人なんていないのよ。そのくせ一人では何にも作れないから、栄養失調で餓死寸前でしょ、時々ね、弟子のMさんが弁当を差し入れしてたようだけど、毎日家に行ってやるわけにもいかないからって、心配していたわ」
「奥様が入院しているO病院に、先生も入院したらよかったのにね、あそこならどんな頑固な人でも変わってしまうぐらい、職員がよくしてくれるのに」
「それも駄目よ、先生は死んでも入院しないっていう人だから。今の病院は院長のお母さまが、ほら、あの有名なお蝶夫人よ、だから特別室を自分の家がわりにつかっているっていうわけ」
 千代子は昔“青風”の忘年会で、あのお蝶夫人が歌う「ある晴れた日に」を独唱するA夫人を思い出した。あの頃、酒井よりも年長だったから、もう相当の年齢になっている筈である。
「どう?昔の恋人の哀れな姿を見て、がっかりしたでしょう。逢わないほうがよかったんじゃないの、逢わないで一生思われていたほうが」
「もうそんな気持ちは全くないわ、母の介護をして、老人問題に関心があったから、あの本読んで気になっただけよ、わたし、時々でも行ってみようかしら」
「よしなさいよ、先生には子供もいるんだし、放っとかないと、今にあなたも憎まれるわよ」
 千代子は八十三歳で死んだ母のことを思い出していた。酒井も母のように、穏やかな気持ちで残りの日々を過ごせたらいいのに……。
 人生は年老いて醜くなってくると嫌悪され、生きる値打ちもない存在のように思われがちである。人に嫌われてまで生きたくないと思っても、死ぬわけにはいかないのだ。老人の多くは心を閉ざして、周囲に迷惑をかけないように遠慮し、自尊心を捨てて何も分からないふりをする。誇りを傷つけられても抵抗できず、じっと我慢していると呆けてくるともいわれている。呆けは神の救済の一つだといわれるぐらい、人間の心は複雑な仕組みになっているようだ。呆けもせず、最後まで誇り高く生きようとすれば、周囲との軋轢に苦しむのは、酒井のような頑固老人自身なのである。
 千代子は、もう一度母を呼び戻して介護するような気持ちで、酒井の元へ行ってみようと思った。一人で過ごすには時間が余って、退屈していたというのもある。
 千代子は週に一回、ジュリアナのパンを買って、酒井を見舞いに行った。酒井は、
「ああ、おいしいな、この香りと味は日本一だよ」といいながらおいしそうに食べる。
「これでブルーマウンテンのコーヒーがあったら、最高なんだけどね、早く退院して、ジュリアナのコーヒーを飲みたいもんだ」
「先生、本当に退院してジュリアナのに行きましょう、そのためにはリハビリをして元気に歩けるようにならないと。よかったらリハビリのお供をいたしましょうか」
「そうか、君がついてくれるんだったら、やってみようかな」
 やってみようと思っただけでも十分だった。後はその意思をどう援助し、持続させるか、周りの人の力量が問われるのだ。
「先生、今日は二時からリハビリですから、お顔をあたりましょうか、髪もきれいにしましょうね」
 千代子は蒸しタオルを酒井の顔にあて、ぐるっと拭きあげて「いない いない バァー」と笑いながらおどけてみせる。電気カミソリで髭を剃っている間、酒井は顎をあげて目を閉じていた。瞼のちりめん皺が細かく震え、目の下が二重にたるんでいる。頬の皮膚を引っぱりながら荒い毛をゾリゾリ剃っていると、父にもこうしてやりたかったという、切ない気持ちがわき上がってくる。
 七十六歳で父が亡くなった時、千代子はまだ四十代だったから、老いた親の心境を思いやる心のゆとりはなかった。
 髭を剃って髪をなでつけると、酒井はありがとう、といった。ありがとう、と礼をいうのは、相手を認めて受け入れたという意思表示なのだ。
「パジャマを着替えようか」
「え? ああ、そうですね、着替えましょう、ロッカーを開けてもいいですか」
「おう、開けて適当なのを選んでくれ、バアさんが持ってきたのがあるだろう」
 酒井はお手伝いさんでも、ヘルパーさんでも、バアさんと呼んで見下している。人を見下す態度がよくないのは当然であるが、見下されるような扱いをしていたともいえる。ロッカーの中には、Yシャツもブレザーもなかった。千代子はチェックの開襟シャツと、ふと目についたペーズリー模様のハンカチを取り出した。
「先生、これにしたら如何ですか、襟元にこのスカーフを巻いたら素敵ですよ」
 ウォッホン、と一つ咳払いをしただけで、酒井はパジャマを脱ぎ、千代子が着せ掛ける開襟シャツに腕を通した。ハンカチを三角にして首に巻き、ひと結びしてから衿の中におしこむと、洒落た格好になった。
「このままじゃ、ちょっと寒いから、カーディガンを着ましょうか。まあ、何て素敵、イギリスの紳士みたいに見えるわ」
 千代子は上半身に注目を集め、下は運動しやすいように、黙ってジャージーをはかせた。
「さあ、では参りましょうか、私がついているから大丈夫ですよ」
 自力では歩けない酒井の手をとって車椅子に乗せ、膝掛けの毛布で膝を包んでジャージーを隠す。
 部屋を出て詰所の前を通ると、看護婦たちが目配せしながら笑っている。
「あら先生、おしゃれをしてどこいくの?」
 酒井は見向きもしないで、ウォッホンと咳をする。
「今からリハビリに行ってきます」
「まあ珍しい、きれいな人をお供につけて、よかったねぇ、じゃリハピリ頑張ってね──」
 バイバイ、と子供を見送るように手をふる看護婦は、若すぎて忖度がない。おじいちゃんと呼ばないまでも、意識下では老人を軽んじているのが見てとれる。





 千代子は車椅子を押して、六階からエレベーターで二階へ降り、リハビリ訓練室に入っていった。訓練室には、白衣を着た理学療法士が三、四人、大きな声で励ましながら老人のリハビリを指導していた。老人たちは寝巻きかパジャマの上に半てんかちゃんちゃんこを着て、血の気のない虚ろな顔をしている。ベッドから今起こされたばかりのように、白髪がもやもや立って、とろんとした目をしていた。
「せんせー、きたんかね、ようきたねぇ、またまたァ、今日はおしゃれなんかして、ここは遊ぶところじゃないんよ、アハハハ……。さあ、じゃこっちきてねぇ」
 訓練士は親しみをこめていっているつもりのようだが、千代子は酒井の自尊心をいたぶっているようにしか思えない。母が入院していたO病院では、決してこんな口のきき方はしなかった。老人のプライドを傷つけるような言動は厳しく戒められ、職員の教育が行き届いていた。
「お世話になります、今日から私が時々参りますので、どうぞよろしくお願い致します」
「あ、娘さん?」
「いえ、はい、そんなような者です」
 ここに酒井を一人で行かせるわけにはいかない。O病院で母のリハビリを体験している千代子は、自分のやり方でやってみようと思った。
 立って平衡棒を掴みながら歩く練習をする。腰の高さの棒を掴んで立ったりしゃがんだりする。足に重りをつけたベルトを巻いて上下に動かせる。この程度のリハビリなら、病室でも廊下でも、どこでもできるのだ。要は本人がやる気になるかどうかの問題である。訓練して回復してゆくのを喜んでくれる人がいるというのが、何よりの励みになるのだから。
 千代子は週一回の病院通いを、一日おきにして酒井を励ました。千代子が病院にいかない日の酒井は「赤ちゃん返り」をすると看護婦はいう。朝から機嫌が悪く、看護婦を怒鳴りつけて、食事もとらないというのだ。怒るには怒らせる理由がある筈なのに、看護婦に受け止める力がなければどうしようもない。感情のコントロールができにくい老人には、人格を尊重する態度と、優しい言葉掛けが、必要なのである。
 千代子が傍にいると、酒井は遠慮がちに用を頼む紳士になる。
「千代さん、足の爪が伸びて気持ちが悪いんだが、切ってくれませんか」
 千代子はポリバケツに湯を入れてきて、酒井の足を浸す。足の裏や指の間が垢でぬめるのを丁寧に洗い、もう一度湯を替えてゆすいでからタオルで包む。車椅子に座る酒井の足元にうずくまって、肥厚した爪を切ってやる間、酒井は黙って、千代子の肩に手を当てていた。
 ありがとう、すまないねぇ、という言葉を聞くたびに、千代子の心は満たされた。
 病室ではできるだけ立って歩くように仕向けようとするが、面倒なことはやりたがらないので、外に連れ出すことにした。売店で買いたいものを自分で取ってもらい、レジでお金を払ってもらう。中庭のベンチには車椅子から移ってもらい、並んで座って話をする。向かいあって話す時と、横に並んで話す時とは、話の内容が違ってくる。
「千代さん、僕ァ、君がきてくれるお陰で生き返ったよ、もうこのまま死ぬんだろうなあと諦めていたが、もう一度家に帰りたいと思うようになった」
「そうですよ、早く退院して家に帰りましょう」
「家に帰っても、君は来てくれるだろうか」
「息子さんたちが帰ってきて下さいますよ、私は先生がお元気になられたら、用はない人間ですからね」
「………」
 ひと月前に東京にいる酒井の長男が帰ってきた。病室に現れた時、昔の酒井の風貌にあまりにも似ているのに驚いた。長男はゆっくりと酒井に近づいて、元気そうじゃないの、よかったね、と声を掛けた。酒井は
「ああ、お前か、どうした」
 といってから千代子を紹介した。
「この人は藤田千代子さんといって昔の教え子だ。大変世話になっているから、お前からも礼をいってくれ」
「あ、どうも、父が大変お世話をお掛けして申し訳ございません、頑固親父だから、随分迷惑を掛けているでしょうねぇ」
 感じのいい普通の親子にしかみえないが、嫁が家に入って面倒をみるとなると、むずかしい問題が生じてくるのは、当然のような気がした。帰りぎわ千代子に
「あの、率直に申しますが、お礼はいかほどにしたらいいでしょうか。遠慮なくいって下さい」
 といった。お手伝いさんやヘルパーさんに支払っていたように、千代子にも報酬を出して世話をしてもらおうと思ったようだ。
「いえ、私は好きでやっているんです。お金なんてとんでもない、それだけは絶対にいただきません」
 長男は困惑した顔で、それ以上は何もいわなかった。
 酒井の二人の息子が、入院中の両親のことをどう考えているのかはわからない。だが、ゆるやかに死に近づいている老人は、たった今現在の充実した生き甲斐が大切なのである。今生きているという感触を喜びとして感じられるささやかな幸せ。千代子は母が倒れてから死ぬまでの間、十分尽くしきれなかった思いを、酒井のために尽くしたかっただけかもしれなかったが……。
 自宅から車で三十分の病院へ、一日おきに通うようになってから二ヶ月経った。
 酒井は杖をついて歩けるようになったのに、車椅子を離したがらない。体力をつけるためにもう少し食べてもらおうと、千代子は酒井の口に合いそうなものを買って持っていった。ジュリアナの店主は、何時も買いに行く千代子に、パンとブルーマウンテンのコーヒーをことづけてくれる。
「酒井先生、早くお元気になられるといいですね、退院したら、是非お連れして下さい。お待ちしています」
 店主は口数は少ないが、この町の噂に詳しい粋人である。ひと頃は、文化人といわれる作家や芸術家が集まるサロンのような雰囲気もあった。今では喫茶店に人が集まらなくなり、自家製の焼きたてパンの人気で有名になっている。





 千代子は病院にいかない日にデパートに出かけ、酒井に似合いそうなシャツやカーディガンを買った。首の皺を隠す絹のスカーフを選んでいると、ふいに横から声を掛けられた。昭子だった。
「千代子さん、毎日酒井先生の所へ行ってるんだって?噂になってるわよ」
「そう、覚悟はしていたわ、でも放っておけなかったのよ、まるで父か母のように思えてね」
「世間ではそうはいかないわよ、興味しんしん、あらぬ噂をしてるみたいよ」
「いやあね、どうせ先生も私も死んでしまえばおしまいでしょ、無責任に噂する人に気兼ねするの、もうやめたの」
「千代子さん、あなた本気なのね、そうなんだ。今度こそ捨て身で愛を貫こうとしてるんだね」
「え?」
 千代子は、不意打ちを喰らったようにポカンとした。
 愛を貫く? 捨て身で? 本気? ………。
 四〇年も昔の恋は、もう千代子の中に微塵も残っていない。今酒井を世話しているのは、子供が親に尽くすような老人介護の気持ちだけである。自力で歩けもしない八十二歳の男と、恋愛関係の深みにはまっているとでも思っているのだろうか。
「いくら何でもひどいんじゃないの、愛だの恋だの、そんないやらしいこと絶対にないわ」
「そう、でも気をつけたほうがいいわ、この町の文化村の住人たちは、案外下世話な俗物ばかりなんだから」
 いくらひどい噂をされようと、今酒井を放り出すわけにはいかない。千代子は腹を立てながらも、一方で開き直る意地も湧いてきた。人が何といおうと、自分が信じる通りにやってみるしかない。孤立している酒井の世話をすることで、孤独な千代子の心も癒されているのだ。

 家に帰りたがる酒井に、外泊の許可が出た。今まで一度も酒井の家に行ったことがない千代子は、昭子に頼んで一緒にきてもらった。
 酒井の家はレンガ塀に囲まれた洋風の建物で、高い柵の門扉がついている。家を抜け出して徘徊する妻を閉じこめるために作られたものだろう。
「久しぶりだなァ」と呟く酒井を車椅子に乗せて門を入る。玄関を入っていくと、洋間と座敷が広縁に囲まれて、右側がダイニングキッチンになっている。部屋の家具や調度品は汚れや傷がついていたが、部屋は案外片付いて、不用なものは出されていない。
 千代子と昭子は酒井をソファーに座らせて、家の掃除や食事の支度に追われた。酒井はテレビを見るでもなく、手を膝に置いてぼ〜っとしている。
 食卓の上にすき焼きの材料を並べ、ガスに火をつけて、鉄鍋をかける。昭子がワインの栓を抜いた。
「先生、おめでとうございまあす。家に帰られてよかったですね、これも千代子さんのお陰ですよ、今夜は先生と千代子さんのお二人にカンパーイ」
 酒井はありがとう、ありがとう、と何回も頷き、おいしそうにワインを飲んだ。病院では一つの鍋を囲んで熱つあつのすき焼きを食べるなどできなかった。
 千代子も、昭子と酒井と一緒に疑似家族を楽しんだ。
 食事が終わって後かたづけをした後、そろそろ帰ろうかという昭子に促され、座敷に布団を敷く。
「先生、今夜はもうおやすみになって下さい。明日は朝早く来ますから」
「そうか、千代さんは泊まってくれるんじゃなかったのか」
 え、と昭子は千代子の顔を見、ほらほら危ない、帰ろ帰ろ、という。二人で家を出て車に乗り込み、部屋の様子を窺っていると、酒井の影がゆらゆら揺れて窓際に立ち、カーテンを開けて外を覗いているのが見えた。
 フフフッ、と笑いがこみあげ、子供が親の後を追うような心境にでもなっているかと思うとおかしかった。
 翌日は朝早く、千代子は一人で酒井の家に行った。
「おはようございまあす」というと
「ああ、おはよう」と答える。寝乱れた布団をたたみ、押入れに押し込む時、ふっと、結婚していたらこういう日常の始まりなのかと想像してみる。エプロンをつけて酒井の洗面と歯磨きを手伝い、着替えさせてから朝食の仕度にかかる。豆腐とわかめの味噌汁と卵焼き、ほうれん草とベーコンの油炒めを作り、家から持ってきた漬物と一緒に食卓に並べた。酒井は待ちかねたように、自分で歩いて椅子に座った。
「僕ァ、朝は洋食のほうがいいんだが、いや、いいよ、せっかく君が作ってくれたんだから」
「すみません、先生にお聞きすればよかったのにね、申し訳ありませんでした」
 ほんの少量ずつ出したのがよかったのか、酒井は全部食べてくれた。
「病院では僕だけパンにしてもらっていたんだが、焼いてない食パンと牛乳だけだよ、コーヒーが欲しけりゃ自分で入れろっていうんだからね。こんなにうまい朝食は初めてだ。僕ァやっぱり日本人なんだね」
 食事が終わり、千代子は酒井の手をとってソファーに座らせ、急いでテレビをつける。家の中に二人だけというのは、やはり何となく気詰まりだった。
 食器を流しに持っていって洗っていると、いつの間にか背後に酒井が立っていた。洗剤がついた手に水をかけ、振り向こうとした時、酒井の手が脇の下から回されて抱き締められた。先生、どうしたんですか、という千代子を背後から抱き、乳房を揉みしだきながらいった。
「千代さん、好きだ好きだ、君は僕の女神だよ」
 耳に熱い息を吹き掛けながら、首筋に口づけをする酒井は、君が好きだ、もう離さないよ、といった四十年前に還っていた。
 酒井の手の上に手を重ね、酒井の体温を肌に感じると、何故か甘やかな気分になって涙がにじんでくる。
「先生、やめて下さい。こんなことするなら、わたし帰ります」
 きっぱりいって手をほどき、振り返ると、涙に濡れた酒井の顔が迫ってきた。どこにこんな力があったのかと思うほど強く抱き締め
「千代さん、僕ァ昔からず〜っと君が好きだったんだ」
と涙声でいう。枯れ果てたような老醜をさらしていても、男は最後まで色気を失わないものだろうか。千代子は愕然として酒井の手から逃れ、ソファーに座っていった。
「先生、冗談はもうやめて下さい。私怒りますよ」
「悪かった。そんな本気で怒らないでくれよ」
「怒ってなんかいませんけど驚きました。今日はお昼にジュリアナに行きましょう」
「そうだね、ジュリアナに連れていってくれるか」
 酒井はさっきのことは忘れたような顔をしていった。若い時と違って、微妙な心の動きは老醜にさえぎられて見えにくくなっている。千代子はうかつだった自分を恥じた。ここまで酒井の気持ちを誘い込んだのは、千代子の罪であった。酒井に恥を掻かせたのではないかとそっと酒井の顔を見るが、表情には何の変化もなかった。
 昼前に車を出し、酒井を乗せてジュリアナに向かう。
 途中、大川の向こうに建つ短大の周囲をぐるっと一周し、車を停めて校舎を眺めた。
「なつかしいなあ」
「ほんと、なつかしいですね」
 二人の間に四十年という空白が茫々と経ち、今また巡り合って一緒にいる。助手席の酒井の右手は千代子の膝に置かれ、その手を千代子の手が包んでいる。
 私はただ、親の介護の続きだけで、酒井に近づいたのだろうか、と思った。それは表向きの言い訳で、本当は一人になった酒井と一緒になりたかったのではないだろうか。いや違う、と千代子は強く否定する。ではこの気持ちは何だろう。
 千代子は自分の気持ちを訝しみながらジュリアナに向かった。
「まあ、酒井先生、退院されたんですか、おめでとうございます、よかったですね」
 店主は笑いながら奥の喫茶店に案内した。パンの陳列ケースの脇を通って奥に行くと、手入れのいき届いた庭に面して喫茶室がある。重厚なテーブルとゴブラン織りの椅子が並び、奥に中年の男女が四人座っていた。
 千代子は先に歩いて酒井の手を引き、窓際のテーブルに座った。朝食をかねてパンとサラダを注文し、コーヒーのLを頼む。ちらちらと視線を投げ、酒井と千代子を見ている男女は、明日にでもあらぬ噂を広めるだろう。
 千代子はそしらぬふりを装いながら、酒井に手を添えて食事の介助をした。熱いブルーマウンテンのコーヒーを啜って喉の奥に流し込むと、香気に浸されてうっとりとした気分になる。酒井はカップをガタガタ鳴らせながら、受け皿に置いていった。
「僕ァ、コーヒーはブルーマウンテンに決めているんだ。いつも君を感じていたかったからね」
「え? どうしてですか」
「君は僕にとって、あこがれの高い山だった。若くて美しくて聡明で、穢れのない君を僕ァ勝手にブルーマウンテンと呼んでいた」
 酒井はそう言いながら目に涙を浮かべ
「君がこんな老いぼれた僕の傍にいてくれて嬉しいよ」といった。
 千代子はようやく分かったような気がした。酒井の愛を感じていたからこそ、今ここに私がいるのだと。静かで哀しい愛が、老境に入った二人を結んでいるのだ。そう思うと、千代子の胸に熱いものが込み上げてきて涙が滲んだ。
 子供がいない千代子は、死ねば消えるだけの人生だと思ってきたが、酒井との愛を貫いていけば、純愛という噂が世に残るかもしれない。それならそれで生きた甲斐があるというものだ。
 千代子は、ブルーマウンテンのコーヒーを口に運びながら、中庭の樹木が風に揺れるのを眺めた。
 濃い緑の葉に埋もれるように、赤い椿の花がぽつぽつと咲いていた。


お わ り



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