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ZERO
文 克
第五章 何度も交尾を強要され、子供を産み続ける血統の良い犬のように、理沙は大人たちの前ですべてを曝け出した。 女の子の怯えた顔が見たいという理由で、溺死しそうになったこともある。もがき苦しむ彼女を携帯電話の写真に残す者もいた。男を憎むが如く、健を折檻する女性もいた。もちろん、性の対象と見ず、食事や休日を与えるという裕福な者も希少だがいた。 健と理沙はペアで呼ばれることが多かったのだが、ある日、純粋な日本人の男の子が入店してからは、健と組むことは次第に少なくなった。そして、遂に健は日本人に養子として迎え入れられ、この店を去ってしまった。 理沙が新しく組んだ男の子は、とても落ち着いた雰囲気がした。立ち姿に芯があるように思われ、微笑んでもその瞳の奥は決して緩むことはなかった。 また、彼はあまり客をとらなくても良いという噂が子供たちの間に流れた。オーナーに優遇され、個室を与えられているとも。 理沙が彼と一緒に招かれるのは、性癖異常者の内でもかなり最悪の部類に入るモノの部屋であった。彼らは舌なめずりをして二人を待っていた。子供たちは、劣悪な客ばかりを彼が引き受けるから、オーナーに優遇されているのだと教育係に知らされた。 理沙が客の前で裸になろうとすると、少年はそれを遮り、自分一人が奉仕したいから、しばらく退室していてくれと、いつも彼女に懇願した。ポケットにしばしの時間潰しのお金をねじ入れて。 理沙が部屋に戻ると、いつも客は帰ったばかりで、少年だけが服を着たままベッドに腰掛けていた。 「あのお客は、もう帰ったの?」 彼は薄く笑い、「そうだよ」と応えた。瞳は歓喜に満ちていた。 「あの客は最悪だったでしょ?」 「否、とても良いお客様だったよ。僕の躾にも素直に応じてくれたし、それにもう二度と子供を買うことはしないだろう」 「どうして?」 「僕が説得したからサ」 平然と言う彼に戸惑い、「言うこと聞くような客ではなかったでしょ?」と、理沙は畳み掛けた。子供が大人を躾るなどという考えは彼女にはなかった。 「躾方が良かったからサ」 少年は思い出し笑いで、吹きだしそうになるのをこらえて言った。 「あ、あなた、日本人よね?どうして酷い客ばかりとるの?それに何故、裕福な国の子供がこんな店にいるの?」 「日本が裕福な国というのは、もう遠い過去の話だ。今では貧富の差は激しく、子供は受難の時代を生きている。ここの子供達は他人に身体を弄ばれる。だけど、お金はもらえる。それで故郷の両親が生活している場合もあるのだろ?日本は家族にレイプされ、ストレスの捌け口として時に扱われるのだ!愛される子と見捨てられる子の差は激しい。僕を見てごらんよ。この身体、君たちのように教育係に打たれたのではなく、母親に執拗に虐待されたのだ!」 そう言って、上半身を剥き出しにした少年の顔は苦悶に歪んでいた。 「君は、確か、名をジューシーと言ったね。僕はここではマイティーと呼ばれている。いいかい、よく聞くんだ。劣悪な客は僕が引き受ける。君以外の女の子とペアを組んでも。僕が呼ばれなくても、オーナーに必ず僕を入れてもらえるようにしてある。すべての客を躾る訳にはいかないんだ。店を運営するための資金は必要だし、僕が始めたことにもお金は要る。君たちは辛いだろうが、もう少し我慢して欲しい」 理沙は目を丸くして彼を見た。 「躾るってどういうことなの?あなた、何をしようとしているの?子供に一体何か出来るというの?」 「君たちと僕の違いはひとつ。君たちは現状を仕方ないものだと受け入れて生きている。だが、僕は違う。受け入れられない。君たちは僅かな望みにしがみついている。だが、僕は違う。憎しみが僕を突き動かし、大人たちを世界を変えたいと願っている。否、願うのではなく、実現できると確信している」 肉体にある無数の傷跡が赤黒く燃え盛り、髪は逆立ち、凛とした視線を彼女に送り少年は言い放った。 「僕の名前は真志、今はマイティーと呼ばれているが、いずれその名も捨てる。全てをゼロに戻すという躾を取り入れた僕の思想にきっと多くの人が賛同するだろう。その時、この国の子供達は救われる」 その瞳の鋭さに理沙は恐怖を感じ、逃げるようにして部屋を出た。 独りになった部屋で、真志は自分に改めて言い聞かせた。まるで決意表明のように。 「躾を受ける大人はたくさんいる。僕はこの世の救世主となろう。そのために僕は破壊されることのない組織を築く。ZEROという名の気高き思想を持った集団を!」
第六章 理沙は瞳を閉じて念じる。 「いい?よく聞いて、健。私のこの力はそんなには強くないの」 「うん。聞こえている。大丈夫だ」 「Mが作り上げた組織ZEROは、巨大になっている。ネットを通じて多くの人が、彼の思想に共感している。彼は年齢も国籍も顔も明かすことなく、白いマスク越しに世界に投げかけているわ。人生をリセットしろ、と」 「M・・・マイティーだね。彼は真志すらも名乗っていないのだね」 「ええ、そうよ。リセットの意味が分かる?彼は自分の過去を汚した者を過去ごと消し去れと言っているの。組織内には、狩り専門の部隊すらある」 「それって自分を苦しめている対象を殺すってこと?」 「そうよ。でも、それが何を意味しているか分かる?人は何かしら他人に傷つけられ、また自分も知らずに傷つけている場合もある。狩りがエスカレートすれば、ほとんどの人が殺されてしまう」 健は理沙から送られてくる声を聞きながら、その途方もない話が時として信じられなくなる。もちろん、日本を遠く離れた南の国で生活している彼女の声が、頭の中に入ってくることさえも非現実的だ。 「人々を狩ることなんて可能なのかい?狩り専門の部隊なんて、変質的なカルト集団のようだ。それにそんな恐ろしい組織を野放しには警察がしないだろう?」 「警察?ZEROはもうそれすら超えているの!もちろん警察内部にも多くの信者がいるでしょう。健、最近流行っている感染病を知っているでしょ」 「ああ、ある小さな病院から発生したらしいけれど、巨大な地震により、潰れてしまった院内から菌が流れ出したんだよな」 「あの病院には、Mの怨みをかった者達が収容されていたの。サンシャイン・キッズの客たちすべてよ。顧客リストから一人残らず拾い上げ、拉致し、殺したのよ。一気に始末せず、病気にさせてゆっくりと死ぬ様を見るためよ。地震が起き、津波に飲み込まれてしまうまでは、考えていなかっただろうけれど」 健はMのことをほとんど知らない。二人は入れ替わるようにして、サンシャイン・キッズに居たのだから。ただ、自分はMの代役として井沢に買われたということくらいしか。 「健?養父さん、まだその家にいる?」 また、頭の中で理沙の声がする。 「ああ、居るよ」 「お願いがあるの。出来るだけ早く、そこから養父さんを非難させて!」 「何故?」 「狩りに来るのよ。間違いなく、Mは養父さんを狩る。部隊を使って」 「どうして、父親を?」 「養父さんは、Mと母親の二人暮しがどのようなものだったか、知らなかったから。Mが母親を殺してから、自分の過去の苦しみの預け場所がなくなったのよ。殺すことでリセットできなかったの。だから、今度は養父さんを狩るの」 「実の母親を殺した?」 「ええ、そうよ。私はその場所に居た。アレを見たから、私にはこんな不思議な能力が身についたの」 「遠い場所から僕に話し掛けるというこの力かい?」 「ええ、そうよ」 ☆ 真志の開設したホームページは瞬く間にネットを席巻した。彼はサンシャイン・キッズの一室で世界を変えようとした。自分に賛同する人々は、彼が想像していた以上に膨れ上がっていった。 人生をリセットする、という考えは人々を魅了し、白いマスクで顔を覆い、狩りを行うグループも激増した。 母親の暴走を止められなかった自分。国外の子供にばかり目を向け、家庭を省みなかった父親。自らの虐待体験を止められず連鎖するように息子を痛め続けた母親。そして、麻薬を買うお金と引き換えに売られた揺ぎ無い事実。女子供に群がる大人達。彼を取り巻くすべてを憎悪した真志は、サンシャイン・キッズというこの世の果てで、今まで耐え忍んできた感情を爆発させたのである。 灼熱の昼と欲望の夜を持つこの国から母親を見つけ出し殺すことで、真志は狩りの烽火を上げたのである。 母親を探したのは、彼女の顔を知るオーナーが中心となってである。容量をオーバーする量の麻薬を身体に打たれ、彼女は息子の前で心臓を停止させた。昇天するかのごとく、一度激しく痙攣をし、真志の瞳の奥を覗き込み、言った。 「母さん、私がどんなに良い子になっても、あなたは私を愛してくれないのね。私、そのものが嫌いなのね」 彼女は激しく衣服を引き千切り、「愛せないのなら、産むな!」と号泣して倒れた。真志の前には母乳という記憶に無い脂肪の塊となっただけの乳房が剥き出しに投げ出されていた。 「母さん、あなたのその胸は父さんに愛されたのかい?優しく包んでもらったのかい?辛い過去を消せるほど愛されてはいなかったのだね。母さん、あなたは愛し方を知らなかったんだね。寂しかったんだね」 真志の最後の涙が、倒れた母の頬に一粒落ちた時、母は一瞬だけ小さく震えた。
☆ 真志はサンシャイン・キッズを一度でも利用したことのある客を集めさせ殺す旨をホームページで伝えた。大量殺人に名乗りをあげた学者や医者は数知れず、人間だけを殺せるという菌までも持ち出した者もいた。 次に、彼は我が子を売りに出した家族も殺すことを決めた。すべての子供の両親を見つけ出すことは困難を極めたが、次々と処理された。 理沙の母親も殺害された。 それはある晴れた日曜日。理沙は「ジューシー、客だよ」と、声をかけられるまでの僅かな時間、部屋の窓から市場を見ていた。歓楽街の先にある市場は、店からはとても小さく見えたが、その賑わいは小さくはなかった。 「あの中に、母さんもいるかもしれない。私を売ったお金で少しくらい暮らしは楽になっただろうか?」 毎日眺めている市場。母親がいるはずもないのに、ただ見ているだけでこの苦しい生活が救われる気がした。 だが、この日、彼女は母親を見つけ出したのである。数人の男たちに囲まれて、佇んでいる母を。取り囲んでいるのは、見たことも無い男たちであったが、輪の中の人たちは、理沙と同郷の大人たちだった。我が子を生活のために売らざるを得なかった哀しい大人たちだった。 母はいとも簡単にその細い首を折られて死んだ。長い年月を過ごしてきた彼女の人生を嘲笑うでもなく、男たちは枯れ木を折るようにして母の命を絶った。 目の前の出来事を事実として受け入れることを拒絶した心は、彼女の肉体を離れた。気が付くと眼下には、窓枠にしがみついている己の肉体が見えた。 「母さん。ああ、母さん」 声が無意識に出た。母さんと呼ぶ度に、涙は溢れ出した。肉体は身動きしないというのに、天井に浮遊している彼女だけが泣き叫んでいた。 「母さん!母さん!母さん!」 次の瞬間ドン!と耳鳴りがしたかと思うと、浮いていた彼女は肉体に強引に引き寄せられた。動けるようになった体は、ゆっくりと抱き締めている者へと首を回した。 (誰?) 心で呼んだ。 (僕だよ。ディックだよ) (ああ、ディック、あなたは日本へ養子に行ったんじゃないの?どうしてここに戻って来たの?) (見ちゃ駄目だ。) (えっ?何を?) (窓の外を、だ。) (ああ、そうよ、ディック、母さんが殺されたの。) 「見ちゃ、駄目だ!」 次の瞬間、自分を引き寄せたのが、ディックでないことに気が付いた。 それはマイティーと呼ばれる日本人の男の子だった。肌の色さえ同じなら、ディックと見分けがきっとつかないだろう。 「何故、母さんや同じ村の人たちは殺されなければならないの?何故、彼らがここに居るの?あの男たちは一体、何者なの?」 瞬きはこの僅か数秒の出来事で、彼女から消え失せたように身体を硬直させ、ただ唇だけが勝手に動いていた。 「ねえ、どうして?」 「たぶん、村の人たちと買い物に来たところを強盗に襲われたのだろう。この街ではよくあることだろ?」 「でも、お金を持たない彼らが強盗に襲われるなんて。それじゃあ、父さんは?父さんは、どうしたの?」 激しく詰め寄る理沙に、無情にもフロントの呼び出し係が、指名客がついたと、彼女をホテル街へと強引に連れ去ってしまった。 理沙の消えた部屋で、真志は窓の外に転がる理沙の母親の遺体を見ながら呟いた。 「君の父さんはね、村でもうすでに狩られたのだよ。理沙、君たちが身体を売るのは、性に溺れた大人たちを引き寄せるためなのサ」 いつまでも色の変わらない眼下の河にいくら血が滲んでも誰も気が付かないであろうこの街から、真志は同志を集い、世界をリセットする決意をした。また、自分と同じ容姿を持つ少年を、我が子として買った父親も消し去ろうと決めた。 一方、理沙は得体の知れないモノに掻き回されながら、ディックを呼んだ。 「ディック!ディック!」 激しく突き動かされると、肉体から心が突然離れて、ベッドの上に人形のように横たわった自分が見えた。 ふわりと浮いた理沙は、遠い日本にいる彼が今目の前にいるように見えた。 ☆ 「目の前で君の母さんは殺されたんだね」 「ええ、そうよ。健、お願いよ、時間がないの。彼は間違いなく、私たちの養父さんを狩るわ。養父さんを安全な場所へ隠してほしいの」 この言葉を機に、しばらく健の耳に理沙の声が届くことはなかった。彼はこの直後、理沙の夫が戦死したことを知る由もなかった。 ただ、この時は井沢にどのように説明すれば良いのか、分からなかったが、すぐに頭にZEROという名前が浮かんだ。ホームページへアクセスすれば何か分かるかもしれない。 しかし、創始者Mの思想論が綴られているだけで、何も得ることはできなかった。ホームページを閲覧できるのは、ごく一部で会員同士のコミュニケーションはすべてパスワード制になっていた。 健は世界を脅かすテロやカルト集団、感染病を対岸の火事のように思っていたが、自分の身に迫る異様な影に恐怖を感じ始めていた。
第七章 真志は父親の住む街で大規模な狩りを計画していた。 サンシャイン・キッズを閉鎖する前にオーナーを呼び出した。 「愛してくれてありがとう」 真志を支え続けた彼女に彼は微笑みを送る。 「いいえ、私のすべての人」 「愛してくれて、ありがとう」 「いいえ、貴方に抱かれ口づけされるのであれば」 「動いてくれて、ありがとう」 その言葉にオーナーは顔を歪める。 「?」 「動いてくれて、ありがとう」 「どういうこと?」 「君は僕のために働いてくれた。よく見てごらん。少しだけ細くなった君の身体を、若返ったその輪郭を」 「私、貴方に愛されるために懸命に尽くした。ねえ、私を抱いてくれるでしょ」 「君は僕が欲しいの?」 「ええ、そうよ。私が欲しいのは、心ごと貴方のすべて」 「ありがとう。働いてくれて。用済みの女」 「用済み?」 「君はたくさんの子供を殺めてきた。君が裁かれない理由があるかい?君が僕を見た時、その瞳に恋が宿ったのを僕は認めたよ。どうだい?恋するって。恋を売り物にしてきた下劣な女!物欲と性欲の塊の女!」 真志は蔑視しながらも、彼女の顎を引き寄せて言う。 「だけど、どうだろう。君は恋によって変わった。本当によく僕のために働いてくれた。ご褒美をあげるよ」 「ああ、貴方に触れられるのね」 「そう。キスをあげる」 「キス?キス、ね」 「そう君の唇の間に僕の舌を挿入してあげる」 「貴方の舌ね。他の男の舌でなく。貴方の!」 「さあ、唇の力を抜いて」 ゆっくりと包み込むように彼女を抱き寄せる。 「温かい唇。乾いた口内を潤す貴方の唾液」 安心して身を委ねている彼女の舌を真志は急に激しく吸い始めた。 「?ウグッ!ウ、ウグッ!」 「さあ、貴様の舌を噛み切ってやる!」 「や、や、止めて!」 懇願する苦悶の表情が、真志に笑みをもたらす。 「無様だ!貴様は僕を買ったつもりでいたらしいが、その逆だ!死ね!」 真志は舌を噛み切ろうとさらに力を入れる。 「や、やめて」 「子供を利用したのだから、子供に殺されるのサ。とても無様に」 「あ、あたしも売られた子。貴方と同じ」 「何?」 「あたしも幸せ欲しかった」 「貴様も、売られた子?」 唇を離して、真志は渾身の力を込め、彼女の首を締め始めた。もだえ苦しむオーナーに真志は恍惚とした表情で絶叫した。 「僕は間違っていない!すべてを白紙へと返さなければいけない!新しく世界を作り直すんだ! だけど、人間には生きる価値があるのだろうか?そもそも生きていくことに何の理由があるのだろう?肉欲の塊で己しか愛せない人間に。コイツを殺すように、すべての人間を狩るべきなのだ!そうすることで、残された心優しき人々に初めて平穏は訪れるのだ!」 首を締め続けている真志に、オーナーは最期の言葉を手渡すように絞る。 「あたしの愛しい人」 「まだ生きているのか?貴様は愚かだ。自分がされたことを他者にした。悪の連鎖を断ち切ることが出来なかった。さあ、僕の力で逝け!」 彼女はその言葉に恍惚とし、震える両手で彼の頬を包み込む。真志はその両手から伝わる最期の温もりに、一瞬、純粋なものに触れた気がした。 「よくお聞き。君の哀しみもすべて消し去ってあげる。すべての人間を僕が導くから、君は安らかに眠るんだ」 諭すように言って、渾身の力で死へ導いた。 ☆ 理沙が不思議な能力に気付いたのは、母親の死を目前にしたある夏の日である。それから幾つもの年を重ねて、日本の井沢の元で養女となり、米兵と結婚をし、観光地となっている南の島へ移住した。今はもう夫も親友だったイルカも亡くし、小さなチワワのチムチムと穏やかに暮らしている。 ZEROの猛威と自然災害、得体の知れぬウイルスなどの拡がりは、正に地球規模の戦争に思えた。第二の故郷である平和な日本にもそれらは、襲ってきた。 理沙は健と交信できるという特殊能力、そして僅かだがある予知能力で明日を世界を見ていた。 真志が父親を殺すという予感が、現実に近付きつつある日、家から少し離れた海辺をチムチムと歩いていると、誰かがつくった砂の塔があった。 「今夜、これは本物になるよ」 チムチムは理沙を見上げて言う。 「あれ?お前、喋れるの?」 目を丸くして理沙は、チムチムを見たが、チムチムはいつもと変わらぬ仔犬。理沙は空耳だろうとその時は大して気にしなかった。 夕食後、蚊取り線香を持ち出して、チムチムと夕涼みをしていたら、チムチムはお気に入りの散歩用の赤いリードを持ってきて散歩に行こうよとおねだりを始めた。 「もしかして...まさかね」 夜の散歩は初めてなのでとても不安だったが、理沙はいつもの海岸に行ってみた。小高い丘を上ると、星明りに海が広がっている。とても穏やかな波音と遠くを走る夜行列車ののどかな音だけが聞こえてくる。時々、観光客なのかロケット花火の音も交えて。そこには、いつもと変わらぬ光景が夜に染まっているだけだと、理沙は思ったが、丘から見下ろした浜辺には、砂でできた塔がそびえ立っていた。近くによって見てみると、電柱ほどの高さがある。たっぷりと水分を含み固まったのか、塔はコンクリートのように頑丈に見える。ポッカリと開いた入り口を覗き込むと、上に向って階段が伸びている。 「上がってみようよ」 チムチムは、自ら器用にリードを紐解き、二本足で立ち上がった。 「お前、喋れるんだね。ねえ、これは夢なのかい?」 「それを今から確かめに行こうよ」 塔の上に立つと、理沙の耳に誰かがすすり泣く声がしてきた。彼女はその泣き声に集中しようと、瞼を閉じた。 すると、闇の中から映像が浮かび上がってきた。何処か南の国の少女が牢獄のようなところで泣いている。チョコレート色の肌には無数の傷と火傷の跡がある。 「帰りたい」 少女は声にならぬ声を振り絞り、じっと耐えている。 よく見ると、少女だけではなく、少年や幼児もいる。 「これが現実なんだよ」 チムチムは、塔の手摺りに腰掛けて言った。 「これが現実?」 理沙はもう一度、瞼を閉じた。すると、今度は中国に似た遥か北の国が見えた。マンホールの中で子供達が身を寄せ合っている。理沙は次々に浮かび上がる映像に驚く。中には、日本の子供もいる。酷く泥酔した父親に殴られる子。ギャンブルに夢中になり、その存在を忘れられ、取り残された車中でカラカラに乾燥して死に逝く乳幼児。驚くべきことは、貧困のため身体を売る少年・少女が存在すること。幸せを装っているクラスで、毎日のように苛められる子。外国人が食べ残したものを地面に張り付き、漁る子。性の対象として親に毎晩、身体を弄ばれている子。母親からのミルクに洗剤が混ぜられ、嘔吐する青い瞳から漏れる涙。理沙は怖くなり、大きく目を開けた。目の前には、いつもと変わらぬ海が広がっているだけ。とても穏やかな海。 「もしこれが現実ならば、私はどうすればいいの?」 チムチムは長い尻尾をピンと立てて言う。 「祈るんだよ。満月の夜、君はここに来て、皆のために」 「祈る?祈ることで彼らは救われるの?」 「彼らの存在を誰かが知ることが大切なんだ。満月の夜にだけ、この塔はそびえる。君の祈りはきっと形となって彼らを救うだろう。ほらっ、もう一度目を閉じて!」 炎天下、車中に取り残された一人の幼子は、幸い愛犬も同乗していたお陰で、近くを歩いている人に発見された。愛犬が勢いよく、声の限りに叫んだからだ。売られそうになった小麦色の少女は、取引の最中、警察に発見され保護された。ベビーシッターに暴行を加えられていた乳幼児は、死の寸前で母親に変化を気付いてもらえた。中には、飢えて死に行く者もいた。理沙はきつく瞼を閉じ、両手を組み、必死で祈った。雲間から天使の光の階段が伸び、彼らは抱かかえられたように宙に浮いた。魂が天に戻ると、再び雲が空を覆い、しとしとと静かに雨が降り始めた。そして、魂をなくした肉体の傍から、彼らの生き様を象徴するかのような美しい色合いの花たちが咲き誇った。 理沙はゆっくりと目を開けて、その先に広がる海と空を見た。 「世の中は悲しみで満ちている」 チムチムは理沙の足元に擦り寄り、その大きな瞳で彼女を見上げた。 「少しずつでいい。君ができる範囲のことをすればいい」 頬に涙伝う理沙は、静かに、だけど力強く頷き、「今は祈ることしか出来ないけれど」と言って両手で涙を拭い、塔を降りた。 理沙は健に伝えようと思った。平和に見える国にも、豊かな国にも、哀しみがあることを、そして真志の思想による暴走を止めてもらおうと。実の父親を息子が殺すという惨劇が起きぬように。 理沙の日に焼けた肌は、満月の夜、輝きを増し、凛とした背筋は海の先を見ている。 塔の上から祈りを捧げる。そして、健へと言葉を送る。 「健、聞こえる?もうすぐMとなった真志が養父さんを殺しに行く。あなたに食い止めてもらいたい。真志と同じ姿をしたあなたに」
☆ 井沢は、真志が直接手を汚すことなく、ZEROの空爆により、瓦礫の下敷きになって死んだ。炎が街を飲み込み、健は小高い丘にある公園へと避難した。 平和は一瞬にして焼き払われた。 理沙の言葉を借りれば、真志が父親を殺すために実家に帰ることは予想できた。このすべてを焼き払わんとする炎の力が弱まれば、家の焼け跡で彼を待とうか、と考えた。真志に会うには、それしか方法はないように思えた。自ら探しても、もはや会える存在ではなかった。 轟音が遠くへと退き始めた頃、それはもう数日も経ったかのように感じられた、ある明け方、真志は現れた。 「顔が似ていると、年のとり方も同じになるもんかね、ディック。否、健」 健は何を言えばいいのか、分からなかった。養父の井沢は死に、目の前で数千という考えられぬ単位の人々が死んでいる。ZEROが手を下さぬとしても、治療法が未だ見つからぬウイルスや世界規模の災害が数万という人の命を奪っている。健には、この死の単位が理解できず、また実感すらできなかった。ただ、自分の下にまるでクッションのように横たわっていた井沢一人の死だけが、ゆるやかに事実として湧いてきていた。 「君は、父親を殺しに来たのだろうけれど、もう養父さんは死んでしまったよ」 健はただその真実を静かに受け入れ、そして息子である真志に告げた。 ☆ 目の前に佇む健の顔に、真志は苛立ちを覚える。 「人生なんてリセットすればいい」 「リセットできないよ」 「何故?」 「積み重ねていたものを、例えそれが辛い経験でもサ」 「父さんの愛を家族愛だと?」 「養父さんはいつだって僕らを愛してくれた。それが例え、君の身代わりの愛でも良かった」 「君は愛を知らないから。比べる対象がないから、ね」 その言葉に健は口篭もる。 「比べる対象があること、それが悲しみを生むことを君は知らないだろう?」 「何故?君は養父さんを受け入れられなかったの?」 「僕の人生をリセットするためサ」 「君ひとりの人生のために他者を傷つけてもいいの?」 「彼らはそれだけのことをしたのだから」 「そ、そんな。そんなのないよ!」 「じゃあ、どうすればいい?苦しみ痛めつけられた人間は、ただ一人傷口を舐めながら生きろというのか!」 「ち、違うよ。過去は・・・そう、過去は受け入れなければ駄目なんだ!前を向かなきゃ!」 「前?」 「そうだよ。前だよ。過去に縛られて生きるより、過去を受け入れて生きるのサ。それがどんなに辛い体験だとしても」 「母さんも父さんも受け入れろと?お前は、自分の人生を受け入れられるのか?」 「受け入れる!過去に僕はない。ねえ、君、リセットするのは、君の過去なんだよ。君を苦しめた人々を君の人生から抹殺することではない!」 「過去だけを消し去りたい。この僕の肉体に刻まれた無数の傷を、復讐もなしに消せと言うのか?」 「復讐には何も無いよ」 「じゃあ訊く。何故に人は殺し合うのか?過去の苦しみを消すためには、その対象を壊すしかないではないか!」 健は真志の言葉に哀れみすら感じた。 「君は、とても美しいのに、愛されたことがないのだね」 「お、お前は仕事以外で愛されたのか?」 健は身体を売っていた日々に思いを馳せるように静かに言った。 「僕にはあそこが全てだった。周りの子供たちも同じ。確かに、君のように比べる対象はなかった。僕らの国の多くの子供たちがそうだったから。知らなかった。比べることで、哀しみは生まれるのだね」 過去を断ち切った彼の凛とした瞳が真志を射貫く。 「僕らは一欠けらの優しさとあの暮らしから抜け出す希望がありさえすれば良かった。君は、裕福な国に生まれながら、哀しみに支配されて育ったんだね」 「僕は両親に愛されたかった」 「愛を売っていた僕は、誰かを愛したかった」 「お前は愛されたくなかったのか?」 「愛する対象があれば、過去は消し去れる。君は周りの子供たちのように、両親に愛されたかったんだね。両親に愛を捧げるのではなく」 「父さんと母さんに、愛を捧げる?与えられる愛ではなく、与える愛?」 「そうだよ。誰も君に教えてくれなかったのだね。与えられようと身構えると、状況はいつだって悪い方へ向かう。愛を売ってきた僕らだから、無償の愛を与える対象が欲しかったのサ」 「愛されたくて、愛されることばかりを考えてきた」 真志はギリギリと歯を噛み、拳に力を込めて叫ぶ。 「僕はいつも愛されたかったんだ!どうして?僕は普通の家庭に生まれなかったんだ。お前たちのように考えられなかった。考えられないんだよ!」 真志は発狂するが如く、常備していた銃を取り出し、突発的に健の身体目掛けて発砲した。 次の瞬間、健は突然ダラリと身体から力を奪われたようにその場に座り込んだ。 「リセットが、君を幸せにすると思ったんだね。君はたくさんの人を殺し続けて、そこからまた哀しみが生まれることに気が付かなかった」 「言うな!言うな!」 真志は子供のように両手で耳を塞ぐ。 「僕は養父さんを愛していたし、僕と同じように買われた理沙も愛していた。憧れの裕福な国・日本にも来ることができた」 「日本はそんな国じゃない!一体、いつの時代の日本を知っているんだ。裕福ではないんだ。そんな人はほんの一部なんだ」 「僕はラッキーだったんだよ。君にそっくりの容姿に生まれて。もし、この顔がなければ、僕は養父さんに救われなかっただろう」 「救われたなどと言うな!お前は買われたんだ。父さんは人間を買ったんだ!」 「君には分からないかもしれない。過去をリセットする本当の意味が。それは過去を受け入れること。そして、今をこれからを生きるということ。過去は過去でしかない。過去に囚われず生きていた僕らは、その日を生き延びることに精一杯だった。例え、それが買われたという形でも、僕は幸せだったんだよ」 健はそう言うと、くの字型に身体を折り曲げて咳き込み、大量の血を吐いた。 「僕は話すことに酷く疲れたよ。そろそろ逝くよ。僕は自分と同じ姿をした君も愛しているよ。いつも養父さんから聞いていた君のことも、全部。だから、お願い。愛を待つ人間ではなく、愛を与える人間になって。そうすけば、色んなことが、変わっていくから。愛すれば、いい。過去ごと。すべて。それが生きること。生きたこと」 最期の光を瞳に宿して、健はそう言った。 「おいっ!どうした?動けよ。逝くんじゃない!動け!動け!動け!」 動かなくなった健に馬乗りして、真志は幾度も彼の身体を揺する。 「い、嫌だ!逝かないで!僕を置いていかないで!これ以上、僕を独りにしないでー。僕を導いて、お願い!」 泣き叫ぶ真志に、健は唇だけを微かに動かした。 「南の島に理沙がいる。そこへ行くんだ。きっと、君を受け入れてくれる。彼女は不思議な力を持っているから、僕が死んだら、君へと言葉を送ることができるようになるかもしれない」 そう言うと、生気が健の瞳から、すっと消え去った。 ☆ 「私達は受身の人間だった。拾ってくれる大人をいつも待っていた。まるで幸福のドアが開くのをいつまでも待っているようだった。でも、幸福のドアは自動ドアではなく、自分の手で押し開けないことにはいつまで経っても、幸福の手前で足踏みしていることに気が付いたの。 どのように生きようとも、過去を受け入れ、今を見つめて生きること、そして道を切り開くこと、それが幸福のドアを開ける鍵だと思う。もし、あなたが望むのであれば、今この瞬間から新たな一歩を歩いていける。ゆっくりでいいから、時々、立ち止まってもいいから、歩いていきましょう。限りある命を」 言葉は、真志の耳に今届けられた。
おわり
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