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ZERO
文 克
第一章 世界がひび割れる音がした。健は浅黒い肌から血が噴き出すのを見た。地面が内側からうなるように叫んだ。轟音が続き、彼の住む街は、一瞬にして廃墟と化した。 二階にある健の部屋は丸ごと下に抜け落ちてしまった。下敷きになった父親がクッションになり、彼は救われた。 至る所で火災が生じ、人々は半狂乱に逃げ惑っていた。 (発動したのだ。) 健は妙に納得して、裸のまま立ち尽くす。チリチリとボクサーパンツが燃えている。手にしていたアダルト雑誌だけが幸せだった時代を象徴している。 (まもなく支配される。) 世界を統一するために、彼は行動を起こしたのだ。健は知っていた。日常が壊されることを、誰もが彼に従うことを。 完全に焼け焦げたボクサーパンツを脱ぎ捨て、健は裸のまま辺りを確認する。投下された爆弾に放射能が含まれていないことを祈りながら。 (飾りはもう要らない。彼はそれを欲していない。誰にどう見られようと、もう意識する必要はない。) 健は瞳をぎらつかせ、これから始まる時代に雄叫びを上げた。 股間から起立している激しく脈打つ棒をうならせながら、小高い丘の上にある公園に向かう。 エイのような形をした軍用機が空に舞い、爆弾を投下する。人々の絶叫が大地を震わせる。南からの強い春風が火災を煽り、街は一瞬にして焼き払われてしまった。 健は耳の後ろを激しく指先で擦り、脳に血を送る。引き裂かれたように割れた腹筋がしなやかな軟体動物のように脈打つ。髪が逆立ち、やがて訪れる支配者の登場を待つ。 彼はまだ幼い子供たちを従えて、現れる。暗闇に映し出された映像が、今世界中に流れている。 健は顔を持たない彼の言葉に聞き入る。 「世界はひび割れ、今新しい世界が始まる。皆、私に従いなさい」 彼は頭をピタリと覆った白いマスクを被っており、瞳の部分だけが切り裂かれ、そこから世界を見ている。 『Zero』。彼が作り出した組織が牙を剥いた。美しく研がれた牙は、不要と判断された街を焼き払い、すべてを0に戻すため、その美しき頭をもたげたのだ。 彼が世界の中心になる。 健は燃え盛る炎を逃れ、新たな時代の語り部となる。 ☆ ZEROの創設者は、インターネットを通じて仲間を増やし続けた。彼を慕う物達は皆、名前と顔を捨てた。彼に全てを預けることで、心の平穏を得たのである。 マスコミが彼を敬愛する者達を取り扱うようになるまで、時間はかからなかった。白いマスクを被り、家族を捨てた人々の増加は、新たなカルト集団の登場か?と競い合って報道された。 ケース@ 病床の両親の介護に疲れた青年は、彼を頼ることによって生き続けていたが、ある日、名前を捨てると言い残し、行方を眩ました。 ケースA 父親を自殺で失った少年は、家族に黙って、彼のサイトにアクセスし続けていた。サイトの管理人である彼の言葉に癒され、時に励まされていたが、ある日、家出をしたまま、その姿を誰も確認していない。ネットの履歴だけが、少年の手がかりである。 ケースB 容姿を罵倒され続けていた少女が、彼のサイトを見るようになってから、表情が明るくなった。「顔を捨て、名前を捨て、彼に全てを託せば、楽になれる」と言い残して、姿を完全に消した。 ケースC 自殺を支援するサイトが次々と消え、自殺者が激減し始めた。『心の拠り所』を見つけたのが理由らしい。 ケースE Zeroに加わるのは必ずしも、若者だけではない。加入理由には、年齢は関係ないようだ。男性では、自己破産、リストラ、会社で陰湿な苛めにあった等の理由が挙げられる。女性では、近所付き合いが出来ない、家庭に居場所が見つからない、夫婦間に愛情を感じない、子供に先立たれた等、男性より複雑な背景があるようだ。 ケースF 街から浮浪者が消えている。 浮浪者を支援するグループが各地に現れ始めた。どうやら、Zeroとの関わりがあるように思われる。彼らは浮浪者の生活を引き受け、簡素だが、しっかりとした建物を提供しているという。 謎の組織Zeroは、救世主のように思われたが、後にそのメンバー達の一部が人間を狩るようになる。 警察によれば、殺人の理由は過去を0にするためだと言う。つまり、殺害されたのは、過去において加害者に何らかの精神的苦痛を長期間与えたことが原因らしい。 過去を清算するため、一人殺す者もいれば、複数に至る場合も当然ある。人間、誰しも独りでは生きられない。他者と何らかの関わりを持ちながら生きているのだ。 会社内で苛めを受けた女性は、職場の飲料水に毒を含んだ。学校で陰湿な苛めを受けた生徒らの中にも同様の手口で、復讐を果たした者もいる。鋭利なナイフで魚をさばくように殺す者もいた。また、ペットを殺された女性が同様の被害にあった男性と組み、殺人を犯した。 理由は様々である。姑を殺す嫁も、妻を殺す夫も、我が子を殺す親も、またその逆も、全て過去を0に戻すためだと言う。 ☆ 燃え盛る炎の力が余りにも強すぎて、人々の絶叫は健の居る場所まで届かない。彼は膝を抱えて、燃え朽ちていく街をただ見るしかなかった。明日のことなど考える余裕もなく呆然として、ZEROのこの世界への憎しみの深さを改めて知る。 健は彼を知っている。ごくありふれた名前の子供だった。当時は。これからは彼のその平凡な名前の頭文字で呼ぶことにしよう。 M。 健はMを知っている。 「そして、私も知っている」 健の頭の中で女性の穏やかな声がする。早春の木々のまだ幼い芽のように柔らかく美しい声。凛とした意志を持つ音を奏でている。 「理沙。世界は何処に向かおうとしているのだろうか?」 彼女が今居る場所も分かるはずもないが、健は問い掛ける。間違いなく、彼女が受け止める事を知っていて。 「あなたが彼の哀しみに共感するのは、分かる。私たちが味わったあの苦しみは、いつしか憎悪となり、日々肥大し、もう誰も止められなくなっている。そして、残念なことに、彼の意思に賛同する人々が、彼を強固にしている。彼は人間の中にある純粋な闇を外に開放してしまう力を持っている。だけど、私はあなたが彼に取り込まれないことを、最後に残された希望だと信じている」 「僕はMを知っているから。ただそれだけがZeroに参加しない理由だよ。でも、理沙、僕には力がない。彼の力と組織は、僕には止めようがないんだよ。小さな存在の僕には。彼を崇拝するZeroのメンバーの中には、政界の人も多くいると聞く。理沙にも見えるだろ。巨大な戦闘機が街を破壊しているのを。今や彼の一声で多くの要人が動くんだ。そして、間違いなく彼は賛同しない全ての人間を狩っていくだろう」 彼女は何も言わない。ただ、彼女の周りから波の音が聞こえるだけ。きっと何処か遠く海の近くで僕に呼びかけているに違いない。 「理沙、僕は見ているしかないんだ」 頭の中に彼女の声は入って来ない。波と風の音だけが、貝殻を耳にあてたみたいに聞こえるだけ。 が、やがて彼女は言った。 「殺すの。組織と闘うのは無理。だから、彼だけを殺して欲しい。それが出来るのはあなただけなの」 「?何故?僕なの?」 「いずれ分かる時が来る。あなたが彼と再会すれば...」 彼女はそう言って消えていった。
第二章 理沙はかつてジューシーと呼ばれていた。湿ったベッドの上で無数の子供たちと身を寄せながら震えていた。何度行っても慣れない仕事に恐怖を覚えながら。 仕事は売春だった。 子供たちの中には、人格破壊を起こす者など珍しくなかった。暴れると、精神安定剤と称した注射を打たれた。当然、針は変えられず、回し打ちだった。理沙はその強烈な注射で不思議な体験を得た。ドン!と耳鳴りがしたかと思うと、理沙は床で寝そべっているもう一人の自分を見ることが出来たのだ。戻らなきゃと焦っても、宙に手足をばたつかせるだけで何も出来ずにいた。ただ、肉体に戻った時には、妙に心が落ち着いていた。 今、彼女は理沙と名乗っている。それ以前の名は棄て、日本を遠く離れた国で暮らしている。夫はイラク戦争に兵士として出向いている。世界は混沌とし、原因の分からぬ肺炎と戦争、そしてZeroという名のカルト集団による人狩りが横行している。 理沙たちは世界に失望し続けた。あの薄暗い湿ったベッドの上で、涙は涸れないことを知った。そして、大人たちの肉欲に枯渇がないことも。 理沙の住む街は海の近くで、観光を主な収入源にしている。イルカ・ウォッチングやマリンスポーツが盛んだ。彼女は夫により、結婚という形で救われた。彼はイルカをこよなく愛する人で、心病んだ彼女を少しでも癒そうと、イルカと接する機会を与えてくれた。 ドビーという名のイルカが、理沙のお気に入りだった。彼と戯れて泳ぐことが、彼女の心を癒し、戦地へ行っている夫の身代わりになってくれた。 理沙の住む街は年中暑いのだが、ある夏の日のこと、イルカが大量に浜辺に打ち上げられていた。専門家や動物愛護団体などボランティアを含めたたくさんの人々が、イルカたちの救出に懸命になった。ドビーはその中にいたまだ幼いイルカだった。次々と息耐えるイルカたちの中で、死に逝く親イルカにピタリと寄り添っていた。 理沙には聞こえた。かつて彼女たちが上げたのと同じ哀しみの絶叫が。 ドビーはいつも浜辺近くまで現れて、理沙と遊んだ。助かったイルカたちは、遠い沖で泳いでいるというのに、群れから離れて、わざわざ彼女に話し掛けてきた。 夫が戦地に赴いてからしばらくして、ドビーは姿を消した。理沙は不思議な能力を使い、夫を探した。が、映像として浮かび上がってくるのは、夫のではなく、戦地の血生臭い場面ばかりだった。身体の一部を失った子供たちの悲痛な叫び、我が子の命を奪われた母親の号泣が聞こえてくるだけだった。 理沙は残虐な場面に顔を背けたかった。白い旗を揚げ降伏するイラク市民たちに銃を向ける兵士が夫でないことを祈った。 フセイン政権が崩壊し、勝利宣言がTVで放送された時、理沙の頭に急に新たな映像が飛び込んできた。それは両手足を失った少年の映像だった。ある兵士の投下した爆弾により、目の前で彼の家族は殺された。 理沙はその時、TVをつけたままキッチンに立っていた。窓からは青空に白い雲が穏やかに浮かんでいた。少年の絶望とは裏腹に幸福な風景がそこにあった。 理沙はそのまま目の前に広がる景色だけを受け入れたいと願った。事実を受け止めることが出来ないことを知っていたから。 「精一杯生きろ!」 夫が結婚という形で歳の離れた理沙を救ってくれた時、そう言ってくれた。彼の大きな手の温もりに彼女は全てを委ねた。 が、その夫との記憶も打ち砕かれようとしていた。彼を戦地へ見送った時、彼の手により、罪のない市民が死ぬかもしれない、ということは予感できた。それが映像となって自分に届くことも。 理沙は幼い頃目覚めたこの特殊な能力を心底恨む時がある。見たくもない映像が、彼女が望みもしないのに飛び込んでくるからだ。少年の手足と家族の命を奪ったのは、夫だった。 キッチンの床に理沙は座り込み、受け入れ難い現実を必死で飲み込もうとした。夫は自分が投下した爆弾により、このような犠牲が生じたことは知るはずもないだろうから。彼女は少年に涙を流して詫びた。涙は血生臭く冷たかった。それは床に落ち、凍りついた。 「理沙!理沙!」 床に沈んでいると、突然近所に住む友人が、忙しく家の中に入って来た。礼儀正しい隣人は珍しくノックもせず、酷く慌てていた。 「イルカがまた浜辺に打ち上げられているの!」 理沙は瞬時にドビーを思った。友人と一緒に浜辺に向かう途中、観光客を含めた大勢の人々が同じように海へ急いでいた。 白い砂浜は焼け付くように熱く、人込みの先に無数のイルカがいた。 「ドビー!ドビー!」 理沙は彼の名を呼んだ。人波を掻き分け、イルカの顔を一つ一つ確かめた。ドビーは幸いいなかった。彼女は沖に目を移し、波間に彼が潜んでいるではないかと探した。目を凝らし集中力を高め、彼を探した。周りの喧騒は遠のき、打ち寄せる波の中に彼の声と姿を追い求めた。 ドビーはいた。その純粋な瞳で理沙を見つけると、ゆっくりとこちらに向かって泳いできた。彼女は涙で視界が滲んでいくのを止められなかった。ドビーがどこから泳いできたかを理解できたらだ。彼は夫が身につけていた時計を咥えていた。海水にさらされても落ちない深紅の血が、ドビーの血なのか、夫の血なのか、判断しかねたが、彼女はやがて夫が命を落としたことを知った。 傷つき疲れ果てたドビーを抱き締め、「お帰りなさい」と何度も言った。 ドビーは理沙に夫の遺品を渡すと安心した様子で一声泣いた。 「理沙。精一杯生きろ!」 それは夫の声であり、ドビーの声でもあった。理沙は息耐えたドビーを抱き締め、その航海の熾烈さを知った。途中で鮫に襲われたこと、軍艦に身体を傷つけられたこと、食事を摂ろうともせず、彼女のもとに時計を必死で届けてくれたことの数々を。 また、夫の遺品を握り締めることで、家族を失った少年の映像が随分と前のものだったこととTVでは決して放送されなかったことを知った。そして、夫の操縦していた軍用機が同朋の誤爆により破壊されたことを。 ☆ 欲しいものはお金だったに違いない。理沙ら子供たちを売り払うことで、両親は一時を凌いだのだ。一年ももたない僅かな金額で。 理沙は『ジューシー』という名で商品として店頭に飾られた。夕闇が灼熱の国に影を落とし始める頃、子供たちは起き出してなるべく可憐に見えるようにメイクをされて、ショーウィンドウに立たされた。通りに並ぶ建物のほとんどが売春を目的にしたものだったので、まだ幼い少女がメイクをしていても、肌を露出していても違和感はなかった。 誰も救い出してくれないことを理沙は知っていた。彼女のように親の都合で売られた子供はたくさんいたのだから。が、一つだけ子供たちにも希望があった。それは、心優しい大人に養子として迎え入れられることだった。皆、今いる場所から救い出してもらいたくて、必死に媚びを売った。だが、貰われた先で必ず幸せが訪れる約束などどこにもなかった。 理沙は一度、この暑いだけの国から救出されたことがある。それは日本という四季のある国だった。
第三章 真志という名前を忘れてしまいそうだった。マイティーと呼ばれ、幼児や女子供を売買する店の最上階にある部屋の片隅で窓の下を流れるコーヒー牛乳のような河を見ていた。外は雨が降った形跡もないのに、どうしてこんなに濁った色をしているのだろうと不思議に思えた。 真志は毎日欠かさず河を見下ろした。いつか河が日本のように透明に澄む日が来ると信じて。だが、この国の河の色は変わらず、透明度を持たない事を知った。母親が彼を永遠に迎えに来ぬように。 母・杏子はいつも何かを吸飲していた。虚ろな瞳で、ブツブツと独り言を繰り返したり、突然怯え始めて、「お母さん、ごめんなさい!私を嫌いにならないで!」と泣き叫んだりした。真志は友達のお母さんも皆、大人になると何かを吸ったり、注射したりするものだと思っていた。父親は滅多に帰って来なかったので、母子二人だけの世界に住んでいた。 真志が小学生になると、友達の家に遊びに行ったり、泊まったりするようになった。そこで初めて他人の母親を見て、母が異常だと気がついたのである。例えば、カレーの味が異なるように。マヨネーズ派かケチャップ派か。味噌汁の具は何か、のような違いではなかった。ただ、母だけが明らかに異質に見えた。カレーは肉を使用しなかったし、醤油は小さな瓶にこびり付いているだけだったし、味噌汁は弁当を買うと付いてくるインスタントのものだった。そして、決定的な違いは、他のお母さんたちは、人格が変貌しないことだった。 夏休みの間、友達の家に泊まることが多かったので、真志は「その薬、止めたら?友達のお母さんはそんなもの吸っていないよ」と、杏子に意気揚揚と提案した。とても良いアイディアだと思ったのだ。 だが、次の瞬間、角材のように硬い拳が真志の右目に直撃した。杏子が彼を殴ったのは、初めてのことだった。彼女はいつも独り何処かを浮遊しているような人だったので、暴力とは無縁だと思っていた。 杏子は馬乗りになり、猫がボールを飽きずに転がすように真志の顔を殴り続けた。高音で奇声を上げ、「お前まで私に指図するのか!」と怒鳴り続けた。彼の意識が遠のき始めた頃、彼女は我に返ったのか、今度は血を流す息子を見て、恐怖におののいた表情をし、「お母さん!私に乗り移ったのね!」と言い、今度は「ごめんなさい」と謝り続けた。同じ言葉は繰り返し使用された。「お母さんの中のお母さん、つまりお前のお婆ちゃんがしたのだから、許してやって」と彼を抱きしめ号泣した。 これをきっかけに、杏子の中で何かが弾け、真志は彼女の激しい飢えや渇きを癒すものとなった。彼女の中で何か過去にある未解決なものが顔を出すと彼を激しく殴り、酷く汚い言葉で責め、醜い嘔吐物を見るような目つきになった。浮遊していたつかみ所の無い存在が、憎悪の塊となって、彼の生活を壊し始めたのである。 「お前の右目の視力も幼い頃の私のように奪ってやろうか!それとも両方とも潰してやろうか!」 杏子はよくそう言った。 真志は母の暴力から少しでも逃れようと、彼女の右側にいつも立っていた。どうやら、母は右目が見えないらしく、幼少の頃、実の母親に激しく投打されて視力を失ったようなのだ。彼女は自分の世界に閉じ篭ってしまうと、よく独り言のように子供時代をブツブツと聞き取りにくい口調で喋った。 真夏日が続く酷暑の日、真志が下着姿で横になっていると、杏子はいつものように彼の隣りで何かしら吸引し始めた。次の瞬間には、果物ナイフを取り上げ、彼の太腿にそれを迷わず突き刺そうとした。時には股間を目掛けて飛んで来る事もあった。食事を与えられない日も、トイレに閉じ込められたままの日もあった。たった一度、息子を殴ったことが、杏子を真志の手の届かない場所へと連れ去ってしまったのだ。 ☆ 真志がサンシャイン・キッズで目の当たりにしたものが、彼を一瞬にして憎悪の塊へと豹変させてしまった。その余りにも強い嫌悪感が彼を失神させてしまうほどだった。まだ十代にも満たない女の子たちは篭城され、日本ならば小学生の高学年であろうか、という少女達がお金のために身体を売っていたのである。 「お前は日本人だ。とても貴重だから、きっと多くの客がつくだろうよ」 真志の瞳を覗き込み、彼の頬を赤黒い舌で舐め回しながら、店長は言った。 「オーナーも良い買い物をしたな」 唇を歪めてそう言うと、真志の股間に手を伸ばそうとした。その瞬間、真志は店長の太腿を迷わず果物ナイフで突き刺した。 「な、何をするんだ!」 動揺し目をキョロキョロさせる店長の太腿からナイフを抜き取り、真志は素早く彼の顔面目掛けてナイフを放った。ナイフはためらいもせず真っ直ぐに彼の瞳を直撃した。苦痛でもがき倒れた彼の上に馬乗りになり、真志は渾身の力で何度もナイフを心臓に突き立てた。 「お前らみたいな人間に支配されないぞ!」 真志はデスクからライターを取り出し、店長の顔を焼いた。そして、着ている物を全て脱ぎ、オーナーの椅子に深く定着するように座った。 真志は初対面でオーナーが自分を見る目の中に強烈な興奮を宿していることに気がついていた。オーナーは四十代前半の女性で、身を捩じらせて真志を抱き寄せ、杏子に必要な金を持たせた。 「こんな可愛い男の子が欲しかったの!」 よだれを垂らし喜ぶ彼女の顔が浮かぶ。裸で椅子に座っている自分に対する反応も真志は予測できた。 案の定、オーナーは彼に魅了され、失禁してしまった。腰を抜かして興奮するオーナーを見て、真志は確信した。 不要な人間は狩るしかない、と。 ☆ 父親は随分と月日が流れた頃、真志を救助しに現れた。 「やはり、似ている。健にそっくりだ。真志、お前が成長したら、彼のようになっていると信じ、買ったんだ」 井沢は嗚咽し、真志を抱きしめようと近付いたが、オーナーのボディガードらに取り押さえられてしまった。真志は随分とやつれた父の頬に、目のくまに、無精髭に混じる白いものに疲弊を見た。もう二度と巻き戻せない時間と、自分の中に芽生えた使命が、親子間を完全に断絶していた。オーナー用の椅子に深々と腰掛け、真志は井沢を真っ直ぐ見据えた。 「あなたは世界中の子供を救う気でいた。だけど、僕は救えなかった。日本を遠く離れ、自分の家庭で何が起こっているか、知らなかった」 「すまない。杏子がドラッグを続けていたとは知らなかった。会えば、必ずもうしていないと言っていたから」 「昔はよく一緒にお風呂に入ってくれた。もし、帰国した時、一緒に入浴してくれていたら、僕の身体が変色するほどの痣だらけだと気が付いてもらえたのに。もう、遅いよ」 そう言って、井沢に退室してもらうようボディガードに目で合図した。 「待ってくれ!真志!」 「その名は売られて消えた。ここではマイティーと呼ばれている。いずれ、その名も捨てるつもりでいる。そうだな、今はMとでも呼んでくれ」 豹変したように冷徹な視線を放つ息子に、井沢は恐怖すら感じた。 「真志、お母さんは?今、何処に?」 真志は眉をピクリと動かし、窓の外を指差した。 「路上にでもいるんじゃないの?」 階下の道端には、寝ているのか、死んでいるのか分からないような形で、女性が何人も横たわっていた。 愕然とする井沢に、「お母さんはとうとうこんな世の果てにまで僕を追いやってしまったのだよ、お父さん」と、真志は薄く笑った。その顔は父の本当の救援を待ち侘びた少年の顔であった。 「真志・・・」 息子が今はまだ父のもとに帰れないと井沢は悟った。 「また、迎えに来るよ」 井沢はそう言い残して、立ち去った。 真志は軽く微笑み、父を見送った。そして、オーナーに自分専用のパソコンを購入するように命じた。 「僕はこれから世の中を変えるよ。だから、お前達、僕に力を貸すのだよ」 オーナーは、静かに頷き、白いマスクを被り、「M、私は世界を変えるため、名前を捨てます」と誓いを立てた。
第四章 この肌の上を数え切れぬ程の指先や舌が滑っていったことだろう。健は愛されるために存在している。優しく愛撫され、時に刺激的な侮辱を受ける。興奮した時の彼の表情、苦悶する火照った顔、内側から弾かれるように爆発する若さ、そして幼さ。皆、彼の存在に救われる。皆、彼との時間に高額を支払う。 健は価値のある人間だ。人々に夢を与えている。彼はその代償として、豪華な食事や衣服、時には旅行やお小遣いなどを与えられる。貧困にあえぐこの小さな国に住むというのに。 健は大人に抵抗しない。すべてを彼らに任せて生きてきた。例え、相手がどのような恥ずかしい行為を強要してきても。それが彼の生き残る術なのだ。 つい先日もまた近くの店から少女が逃げ出した。発見された時の拷問を恐れて、彼女はビルから飛び降り自殺を図った。健らが仮の住まいにしている店は、従順で美しい子供が多いことで有名だ。お陰で店は、清潔なイメージを保ち、売上も伸び続け、彼らはこの界隈では、かなり裕福な暮らしをしている。したたかに生きること。そして、求められ続ける対象であること、それが何より大切なことだっだ。 健は他の安い店の子供たちとは、異なる。泣き叫んだりしない。だから、教育という手荒な虐待も受けずに済んでいる。 健は、自分がどこで生まれたのかを知らない。幼い頃の記憶と言えば、寒いマンホールで自分と同じように飢えた子供たちと身を寄せ合っていたことくらいだ。いつも空腹で食べ物のことばかりを考えていた。親がこの寒々しい国に自分を捨てたのか、路上で生まれてそのまま放置されたのか定かではない。健も周りの皆も自分のルーツを探ろうなどと思いもしない。ただ、今の空腹を少しでも軽減したいだけなのだ。 ある寒い夜、後にそれがクリスマス・イブだと知るのだが、健は仲間達とマンホールで寝ていたら、貧弱のくせに目だけがやたら鋭い男たちに連れ去られた。 何日もトラックの荷台に揺られた。最小限の飲み水と食べ物を与えられた。食べない日もあったので、彼は定時に食事を与えられるだけで嬉しかった。 健らを乗せたトラックは南へ走り続けた。肌を刺す冷たさが緩慢になり、次第に荷台は子供たちの体温で蒸し暑くなっていった。 どこまで運ばれるのだろうという先の見えない恐怖が子供たちの間で爆発しそうになったある日、トラックは小さな村外れにある薄汚いテントに滞在することとなった。運転手らは子供たちを全員裸にし、近くに流れている川で身体を丁寧に洗うように命じた。一列に並ばされ、大人たちに身体の隅々をチェックされた。肉付きの良い子供は一人もいなかった。皆、恥ずかしそうに俯いたり、恐怖で泣き出したりする子供がほとんどだった。テントの中は、子供や女以外にも麻薬や銃が売買されているようだった。 健の肌は他の子に比べて生まれつき小麦色で少しばかり健康的に映り、また容姿も良いので、怖がらず、姿勢を正していれば、何か食べ物を与えられるかもしれないと本能的に思った。 案の定、大人の手を煩わせる子供は暴行され、泣かないように猿ぐつわを噛まされた。また、暴れたりパニックに陥った子は、手足を縛られ自由を奪われた。 子供たちはいくつものグループに分けられた。それが容姿からよるものなのか、従順さによるものなのか、分からなかったが、健は同じ歳くらいの女の子と一緒のグループだった。彼女も彼と同じように極端に無口で、固く結んだ唇で恐怖を押し殺していた。 それが後に健が日本で再会することとなる理沙である。彼女はきめの細かい美しい肌をしていた。貧しい暮らしを想像させる痩せこけた身体だったが、どこか凛とした気品が漂っていた。売られることに慣れているのか、気に入られるために笑顔さえ作っていた。 信じがたいほど暑い異国で、健は初めて自分が何の目的で売られたのかを理解した。絶望に暮れる彼らを恐怖で縛り上げたのは、粗悪な他店の子供たちの疲れ果てた顔と無数の傷跡が目立つ身体だった。 「愛されさえすれば、お前たちはここに居ていいのだ。その愛くるしい笑顔を客に向けるが良い。そうすれば、養子が妻という形でここから出られるだろう」 彼らの教育係はそう言った。 そして、健と理沙を舐めるように見て、「お前ら二人は日系人のような顔立ちをしている。日本人をこよなく愛する客も中にはいる。その美しい肌は、何よりも価値がある。愛されるために毎日美味い物を食うことだ」と唇を歪めた。 教育係は他の子同様、彼らに今まで見たこともないような食べ物を与えてくれた。そして、広くて清潔なバスルームを提供してくれた。個室ではなかったが、ベッドも適度な硬さで気持ちが良かった。自分が客に奉仕としてやらなければならないことの代償として与えられたこの環境を健は甘受した。 あのマンホールでの飢えた暮らしは少しずつ健の中で過去のものとして消え去ろうとしていた。ただ、理沙だけは、引き離された家族を思うのか、時々涙を流していた。客や教育係のいないひっそりとした場所で。
☆ 井沢と出逢ったのは、健が十一歳の頃だ。 様々な店を見て回った彼は、健の店にも訪れた。日本人は金払いが良いので、子供たちはすぐに群がった。SEXに対しても、どこか後ろめたさがあるのか、淡白であるのも知っていた。 表面上はお酒も飲める喫茶店のような趣の店であったが、メニューと一緒に出されるのは、子供たちの写真が載った料金表である。 健たちは控え室で誰が指名されるのだろうと待ち構えていた。男だろうか?女だろうか?買うのか、買わないのか?泊まりか、一見なのだろうか?と。 「ディック、お前だ」 ピンク色がくすんで、病弱な肌色のような薄いカーテン越しに、教育係は健に言った。 井沢は二人のために観光客が頻繁に利用するこの国の表向きの顔を持つホテルへと健を誘った。 バイキング形式のレストランで食事をし、フロントの下にあるプールで健を泳がせた。井沢は「美味しい?」とか「泳ぎが上手いね」と言うくらいだった。手を出すことも店の他の女の子も呼び出すこともなかった。 井沢と健は風呂に一緒に入った。 「日本では親子で入浴するんだ」 彼は健の細い肩を撫で、小さくため息をついた。小麦色の肌を誉め、規則正しい食生活が出来れば良いのにね、と呟いた。近くにいるのに、遠い目をして、健の体を通り抜けて何かを見つめているようであった。 「真志・・・まるで夏休みの真志がいるようだ。艶やかに日焼けして、髪まで焦がして」 彼はそう言うと、健を力強く引き寄せ抱きしめた。健の肩に生暖かい涙が零れ落ちた。それは筋となり健の体に生涯消せぬ痛みとして残った。 井沢は健を買ってくれた。行方不明となった息子に似ているという理由だけで。
つづき
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