脆弱な月

          文 克



   十 裏庭
 六年生になり、級友の顔ぶれも少し異なった。が、広美は相変わらず僕と同じクラスだし、担任も慎也への苛めもそのままだ。皆は慎也を無視して、まるで教室に居ないように振る舞う。斑ごとの作業の時は、特に見難いものがある。
最近では先生も慎也の存在を、どのように扱えばよいか困惑気味だ。授業中、先生は慎也を指名しない。教科書を読もうとしても、最初の音がなかなか出ず、無理に喋ろうと息を吸いすぎて声にならない。もし先生が誤って慎也を指そうものなら、教室のあちこちから押し殺した笑いが生じる。鬱陶しそうに大袈裟にため息をつく者もいる。そんな時、先生は半ば呆れたように言い放つ。
「慎也、もういい。座りなさい」
そんなある日、校舎の裏庭で裸のまま横たわっている慎也を見つけた。紫色の染み、赤土色の血糊、乾いた砂などが身体を覆っていたので、遠くで見た時、慎也が何も身に付けていないとは思いもしなかった。
 春のチクチクと射す光の粒子の中、横たわっている慎也の傍に僕は跪いた。そして、汗をたくさん吸った体操服を、手提げ袋から取り出す。しかし、慎也は受け取る力も残っていないように見える。虚ろな瞳には、もう僕さえも見えていないようだ。
 僕が体操服を掛けると、柔らかな生地にも関わらず、新しい傷に触れると痛がる。
「どうして、大声で助けを呼ばなかった」
 慎也は酷く疲れた顔をしていた。地獄の底を見てしまい、諦めを知ったのか、慎也の顔はまるで生きた墓標のように人の営みの終着点に来たかのようである。
「て、て、抵抗することに疲れたんだ」
 慎也の顔が真中にクシャクシャに寄っている。慎也の哀しみや苦しみが涙となって瞳から滲み出る。古い紫色の痣たちが、再び鮮明な朱色になり、息衝き始める。慎也が受けてきた痛みをもう一度繰り返すように。
「な、何故、ぼ、僕は生きているのだろう」
 僕は傷ついた子犬を抱えるように慎也を胸に寄せるしか術を知らなかった。
 その時、帰ろうとしている先生を僕は偶然見つけた。先生は面倒なものを見たといった表情を露わにした。僕はそれを見た瞬間、大声で叫んでいた。
「どうしてこんなに残酷になれる?苛めのターゲットは慎也じゃなくても良かっただろ!何故、慎也なんだ!何故、大人は僕らを救ってくれないんだ!」
 僕は激流のごとく込み上げてくる怒りを抑えることが出来ずにいた。
 怒りに任せて出た僕の言葉を、先生はまるで聞こえなかったように無視して、「情けない」と慎也を一瞥して言った。
 醜悪なものを見たといった風に首を振って立ち去る先生に僕は押し殺した声を投げた。
「もうすべては破壊されるべきなんだ」
 正義が存在しないこの学校ごと壊してしまいたかった。慎也が受けた同じ傷を皆に刻むべきなのだ。
「こ、こ、幸太」
鋭角的な歯軋りが聞こえたのだろうか、慎也は僕の怒りを鎮めるように、僕の拳をそっと両手で包んだ。
「こ、幸太、き、君じゃなくて、良かった」
 誰もが開花の遅れた桜の話をしている頃、僕らは裏庭の桜の木下で落武者のように身を寄せ合っている。今の日本で大変なことは、花粉から逃れることで、誰一人として僕らの叫びに耳を傾けてはくれない。
僕の瞳から大粒の涙が次々と生まれ出て、慎也の擦り傷だらけの胸に当たる。
「幸太の涙は、あ、あ、熱い。あの人と同じ熱さだ」
「あの人?」
 僕が問うと、慎也は頷いて言った。
「僕を連れ去ったあの人だよ。幸太と同じ涙を流していた。僕の頬や肩にまだあの熱さが残っている。やり切れない苦しみや悲しみに支配された人の涙は、それを受けた者の心に永遠に刻まれるんだよ」
「慎也、お前、あの事件で何を見たんだ?」
 ずっと訊きたくて訊けなかった言葉が口をついて出た。
 しかし、慎也は口を閉ざしてしまった。事件には触れず、ただこう言った。
「人にはどうしても受け入れることができない哀しみがあるんだね」



   十一 風になる
 ゴールデンウィークになるとすぐに僕は慎也を苺山に誘った。近所の公園や河原、ゲームセンター、コンビニなどは、知っている子がたくさんいるので避けた。墓地がある苺山なら誰も近付かないと思ったのだ。
小学校の低学年の頃、幼馴染の志穂と慎也と三人でよく遊びに出掛けた。空想好きな僕らは山の至る所に名前を付けた。向日葵の丘、野菊の坂道、蛇苺の誘惑、昼顔のあくび、カブトムシの木などである。苺山というのも僕らの間でしか通用しない。
 僕はもしかしたら志穂も付き合ってくれるかもしれないと思い、誘ってみたが、口は閉ざされたままだった。申し訳なさそうに僕の靴の先を見ていた。
 ついこの前まで志穂の母さんが経営している美容室に遊びに行っていたのに、もうすっかり疎遠になってしまった。志穂の家の裏には小さな畑があり、僕らはよく苺や無花果、柿などをちぎって食べていた。特に苺は甘く、籠にたくさん盛り、慎也の家へ持って行くと、おじさんが練乳をたっぷりとかけてくれた。 しかし、もう苺が実っても、志穂と摘むことはないだろう。
 目覚めるとすぐ僕は朝食を一気に頬張り、苺山を目指して駆け出した。なだらかな坂道を走る頃には、背中にTシャツが張り付くほど汗だくになっていた。走りながら脱ぐと、風が肩や脇腹を通り抜ける。バンザイをすると、腋の下がスースーして気持ち良い。内側から燃え盛る炎のような新しい緑たちが爆発している。朝の光を跳ね返す瑞々しさに満ちた緑一色の道を疾走する一陣の風だ。若い緑たちは、僕に負けまいとしてザワザワと葉を揺らしている。
 婆ちゃんの墓にお参りをしたら、僕は小屋の前で慎也を待つ。小屋の古びた扉は鍵が掛けられておらず、中は古い農具が片隅に置かれ、閑散としている。墓参りする人のために水道とトイレがあり、休むための畳があるだけだ。
 僕は青空を仰ぎ、まず身体の中の空気を吐き出す。そして、鼻から夏草の匂いのする大気を吸い込み、演劇の発声練習のように腹から大声を出す。
「あー、えー、いー、おー、あー、うー」
 山も僕の声を返してくれる。
「おはよう!」
 僕はつい楽しくなり、山に挨拶する。
「おはよう!おはよう!おはよう!」
 山彦は快活だ。
 小屋からは小さな池が見える。子供の頃、父さんはよくここで泳いだそうだ。でも、すぐ近くに墓地があるせいか、いつしか誰も寄り付かなくなった。空家になると寂れてしまう家屋のように、ひっそりとした池。誰も来ない場所は、いつしか誰も寄せ付けない場所になる。人も同じだ。社会と交わらない人は、自分の世界が全てになってしまい、知らず知らずの内に他者を寄せ付けない雰囲気を醸し出すようになる。
 緑濃い森の中にいると、まるで池の水面をかすめるツバメやトンボのように、僕は自然に同化してしまう。想像に任せ目を閉じれば、僕はどんな場所にだって行ける風になる。木立を駆け抜け、空から森を見下ろし、池に小波を立てる。空を飛ぶコツは、自分を意識しないこと。目を閉じて耳を澄まし、無心になることだ。そうすれば、僕は僕であることを忘れられる。
 風になり五月晴れの空の下を駆けていると、野菊の小道を歩いてくる慎也が見えた。俯き加減で足取りも重い。まるで昼顔のツタが足に絡んでいるようだ。
「慎也―!」
 僕が大声で名を呼ぶと、慎也の唇が綻び、瞳に明るさが加わった。
「小さな声から始めよう。ゆっくりと言葉を確かめながら。呼吸を整えて、恥ずかしがらずに」
 僕はそっと慎也の腰に手を当てた。
「さあ、慎也」
 声を出そうとすると、肩がピクピクと上下し、全身が強張る。慎也はそれを恥ずかしそうに鎮めようとしている。が、意識すればするほど、痙攣は頭皮にまで達する。
「こ、こ、幸太。な、何を言えば良い?」
 緊張している慎也に僕は「ヤッホーかな」とおどけて見せた。
「ヤ、ヤッホー?」
「うん。ヤッホー!だよ」
 山に登れば、必ずそう叫んでいた慎也。その声をきっかけに皆が大声を上げた。慎也が声を投げかければ、クラスの誰かが応えてくれた。しかし、今では慎也の山彦になってくれる者はいない。
 僕は息をたくさん吸い込んで、「ヤッホー!」と一気に吐き出す。山々はすぐに返してくれる。
「さあ、慎也、君の番だよ」
 慎也は恥ずかしそうに俯いたまま、小さく息を漏らす。
「ヤッ、ヤッ、ヤッホ」
「そんなに小さな声じゃ、タンポポの種も飛ばせないよ。ほら、誰も見ていないよ。慎也、声を出してみよう」
 慎也のヘルプ信号が小さいからいけないんだ。慎也が大声で言えば良い。
 僕を苛めないで!僕も皆と同じ小学生なんだ。僕だって皆みたいに喋りたいし、遊びたいんだ。僕を苛めないでくれ!と。
 慎也が苛められるがままになっているから、皆、君の痛みに鈍感になる。反撃しないから、君のプライドが踏みにじられていると、誰も気付かない。はっきり意思表示すれば、君の苦しみは伝わるはずだ。何も言わないから、苛めが遊びのようにエスカレートしていくに違いない。
 でも、君の声を奪うほど、苛めは君の心を潰してしまったんだね。だけど、僕がいるよ。心配しないで、少しずつ声を取り戻そう。



   十二 古井戸
 慢性的な緊張のため、喉で締め上げられていた慎也の声に明るい兆しが見え始めたのは、夏休みに入ってからだった。僕らは学校が終わると苺山に登り続けていた。二人きりの時はいつもより大きい声を出そうと心掛けた。
「山と話をするんだ」
 話し掛ける言葉も自然と大きくなる。
「誰の目も気にすることはない。森を駆ける風や鳥のように、時には蝉のように、僕らの声を夏空に解き放とう!」
 丸くなっていた慎也の背中も徐々に真っ直ぐになる。
「いいぞ!いいぞ!」
 力まずに声を出すには、まず緊張を解かなければならない。スッと慎也の声が伝わってくるまでもうすぐだ。
 僕らはお互いの顔が見えなくなるまで、墓地の近くの小屋にいた。木造の家屋は、隙間だらけで月明かりが射し込んでいる。フクロウが今にも真夜中の時報を告げそうだ。薄闇の中で聞く慎也の声は、いつもより落ち着き、夜の空気を通っていく。
「なあ、幸太、涸れた井戸の底に座ったことある?」
「井戸?」
 突然、慎也が突拍子もないことを言い始めた。
「うん。志穂の家の庭に井戸があるだろ」
 確かにそれはあった。僕らが低学年の時、野良犬が落ちたのがきっかけで、今は蓋がされている。救出された黒い子犬はテルと名付けられ、志穂が飼うことになった。
「その井戸がどうかしたの?」
 僕が訊くと、慎也は更に透き通った声で応える。
「時々、そこに行っていたんだ」
「苛めから逃げるために?」
「うん。そこだと誰も気付かないだろ」
「でも、蓋をされたら、どうするんだ?」
「志穂がいる。皆がいなくなると合図してくれる」
「そっか、志穂が」
 僕だけではなかった。志穂も慎也の置かれている状況はいけないって知っていたのだ。そして、行動してくれた。
「最初は怖くてサ。石の隙間から蛇や百足が這い出すんじゃないかと思うとゾッとした。壁からクラスの連中の手が伸びて、首を締められる妄想。志穂が僕を庇ったせいで苛められるのでないかという不安。皆に見つかって石を投げられたり、唾を吐かれたりする恐怖。実際にはあり得ないことなのに、変なことばかりが想像された」
 井戸の底で慎也が丸くなって、辺りの気配に怯えている様子が目に浮かぶ。
慎也は人間であることを忘れ去られているのか?それとも、人間だからこそ虐待されるのだろうか?それは誰もが持っている本能によるものか?
僕はたまらなくなって慎也の肩を抱いた。汗と夏草の匂いがする。Tシャツが少し湿って冷たい。
「なあ、幸太」
 僕の手を強く握り締めて慎也は言った。
「そろそろ井戸の底から這い上がろうと思うんだ」



    十三 脆弱な月
 慎也と僕は苺山の一番高い場所に腰を下ろしていた。
「僕のことを皆が気味悪がっていることは知っている。監禁事件からしばらくして学校に戻った時、まさか苛めに遭うなんて思わなかった。周りの大人たちはあの事件が僕の心に悪影響を与えるのではないかと心配していたけど、僕にはこの長引く苛めのほうが圧倒的に辛いんだよ」
 空に一番近い場所で、慎也は言った。重いはずの言葉たちは風に乗ってサラサラと流れていく。それは慎也の顔が何処か吹っ切れたような清々しさを見せているからかもしれない。心の奥底で凝固していた悲痛な現実と過去が、話すことで癒されているのだろう。
「僕は子供を失った母親に誘拐されたんだ。おばさんの息子は、小学生の頃から苛めのターゲットにされていて、中学一年生の時、激しい暴行を受け、他界した。苛めているグループの主犯格の少年とコンビニでたまたま肩がぶつかったのが原因だって。帰り道、尾行され、人気のない場所で金属バットや木刀で殴られ続けた」
 慎也の話すことは、TVのニュースで時々見かけることだ。少年犯罪は頻繁で、今では新聞の片隅に載るほどである。僕はこのままいくと、慎也も同じ道を辿るのではないかと恐ろしくなる。
「何故、僕が誘拐されたと思う?」
「それって、誰でも良いのではなく、慎也でなくてはならなかったってこと?」
「そうだよ。僕だからこそ誘拐されたんだ」
 慎也は真っ直ぐ前を見据える。
「学校の帰り道、道を尋ねてきたおばさんに逢った。良かったら、目的地まで連れて行ってくれないかと頼まれ、おばさんの車に乗った。後部座席にはスーパーで買い物をしたビニール袋が二つ三つ置かれていた。誘拐は計画的なものではなく、路上で偶然僕を見つけて咄嗟に声をかけたのだと思う」
「衝動的に?」
「うん。僕は目的地を過ぎてもどんどんスピードを上げていくおばさんが怖かった。まるで何かに憑かれたように見えた」
 慎也はそこで一呼吸置いた。そして、あの事件で見たものを話し始めた。
「僕が通された部屋は、白い薔薇で埋め尽くされていた。壁には僕そっくりの少年の写真が飾られていた。少年が使っていたギターやサッカーボールが床にあり、その周りにも白い薔薇が飾られていた。おばさんは、僕を抱き締め何度も少年の名前を呼んだ。無数の涙が僕のシャツを濡らした。
その日から警察に見つかるまでの間、僕は慎也という名前を失っていた。少年の服を着て、少年の好きな物を食べ、僕はおばさんに愛された。他の人に見つかるといけないから、外でサッカーは出来なかったけどね。
おばさんは、少年が受けた暴行を僕に聞かせた。当時の新聞記事も見た。罪を償うために加害者は罰せられるだろうけど、彼らの命までは奪えない。苛めに耐える日々の中で、否、もう既に諦めていたかもしれないが、もがき苦しんだ末に、肩がぶつかったくらいで、少年の命は強制的に奪われた。およそ一時間に及ぶリンチで、だ。
帰りたがる僕をおばさんは必死に繋ぎ止めようとした。お願いだから、もう一日と、おばさんは激しく嗚咽した。
僕はどうすれば良いのか分からなくなっていく自分が怖かった。僕を心配している父さんのことを思うと、すぐにでもあの家から脱出しなければならないと思った。
でも、できなかった。おばさんは僕の傍にいつも居たからね。おばさんが外出する時は、クローゼットの中に閉じ込められていたんだ。
僕はその暗がりの中、癌で亡くなった母さんのことを考えていた。痩せ衰えた母さんのこと、まだ健康だった頃のこと、そして父さんと二人で生きていかなくてはならなくなった日のことを。
おばさんは、母さんに少し似ていた」
慎也は僕を真っ直ぐ見て言った。風が急に肌寒く感じられた。陽は大きく西に傾いている。
「ある日、僕がクローゼットに閉じ込められていると、単身赴任から急に帰宅したおじさんが少年の部屋に現れた。サッカーボールに触れたり、何冊もあるアルバムを眺めたりしていた。そして、おじさんは部屋中を見渡している内に、クローゼットに掛けられた見慣れない大きな錠に気が付いたんだ。
 おじさんは隙間から中を覗き込み、人が居ることを知って、とても驚いた。その時だった。僕に手料理を食べさせるのを楽しみにしていたおばさんが帰ってきたのは。
 クローゼットの中から、死んだはずの少年が現れたので、おじさんは身動きができなくなっていた。横でおばさんが必死に謝っている姿も目に入らない様子だった。おじさんは僕を震える肩で抱き締め、少年の名前を何度も叫び続けていた。
 その夜、おじさんは僕を家に返すようにおばさんを説得した。おばさんがそれを受け入れた時、二人は僕を家の近くまで送る前に、少年がリンチを受けて他界した場所へ一緒に行ってほしいと懇願した。
 久し振りに吸う外の空気は、僕の体内を満たした。肌に染み付いた薔薇の香りが外に解き放たれていくようだった。
 小高い丘の上にある公園の片隅に、白いミニローズが咲いていたよ。おじさんとおばさんは、僕をそこに招いた。少年が遺体で発見された場所だ。
仄かな月明かりの中、白く浮かび上がる花に僕は手を合わせた。二人も両手を合わせ、少年に何か話し掛けていた。その時だ。捜索願いが出ている僕を巡回している警察官が見つけたのは」
夕陽に赤く染まっていた僕らの足元に闇が押し寄せてきた。慎也は一呼吸置いて続けた。
「公園からは月が見えた。闇の中に消え入りそうなほど弱い明りの月は、少年のようでもあったし、我が子を失ったおじさんとおばさんのようでもあった。僕はあの夜の月を決して忘れることはないだろう」



   十四 蛍の草原
 夜空には無数の星が瞬いている。空がとても近い。慎也と二人で見上げていると、流れ星が願い事を唱える間もなく消え去った。小さな蛍が、緩やかな光の帯を夜に描いている。池に続く小川の上を漂い、鬱蒼と茂る草の上で羽を休める。星屑から舞い降りたような蛍の群舞に僕は言葉を失う。慎也が保護された夜の弱さとは異なる命に満ちた夜の風景だ。
慎也は蛍の舞いの中にかつての自分を見ているのだろうか。
「幸太、僕は殴られている時、皆と仲の良かった頃を思い出すんだ。そうすれば、なんとか耐えていける気がした。信じて待っていればきっと元通りの日々が戻って来ると」
平和で無邪気だったあの日々を懐かしむかのように言う。
「本当に戻れるのかな?皆、すっかり変ってしまったゼ」
「そうだね。何もかも変ってしまった。もう以前には戻れないよね。あの日、僕がおばさんの車に乗っていなかったら、おばさんたちは苦しまなくて済んだかもしれない。そして、僕は苛めにあうこともなかっただろう。深い哀しみは人を変えてしまう。哀しみを埋めようと必死に何かにすがりつく。もし頼ったものが過ちだとしたら、更なる悲劇を生む」
星明りで見る慎也の横顔は、以前より大人びて見える。
「おばさんはね、僕に言ったんだ。誰とでも仲良くしようと考えては駄目だって。自分を表現せずに良い子でいようとすると、かえって友達ができにくいし、断ることができない人になるから。おばさんのひとり息子もそうだった。苛められても、いつか仲良くなれるのではないかと努力し続けた。危険なものを危険だと判断できずに、結果的に苛める側の暴力がエスカレートした。自分を主張しなさい。助けを求めなさい。おばさんはそう僕に言った。でも、その言葉は僕にではなく、他界した息子への投げかけだったと思う。苛められながらも、皆と仲良くしたい、昔に戻りたい、そんなことばかり考えていたから、先に進めなかった」
「僕は皆と仲良くしようなんて思わない。友達になりたいと思う奴とだけ付き合う」
 小さな蛍の明りがひとつ、群舞から離れて自由に舞っている。きっと、あれは僕だ。自由が好きな僕自身だ。
「僕に幸太と同じだけの強さがあればなあ。僕もあの少年と同じだ。おばさんがアドバイスしてくれたのにな。あの時はまさか自分が苛められるなんて思いもしなかった」
 蛍が舞う小さな草原に向って、慎也はゆっくりと歩き始めた。
「おばさんは苦しんでいた。僕を家へ帰さなければならない、だけど離れられない。その葛藤の中で、心が潰れてしまった。今の僕も昔に戻りたい、苛められている自分を認めたくない、皆と仲良くしたい、そんなことばかり考えすぎて、おばさんと同じように心が潰れてしまったんだね、きっと。心配してくれる幸太や父さんに申し訳ないよ。もう僕は僕で良いんじゃないかな?」
 夜空を仰ぎ、慎也は言葉を放つ。
「そうだ!慎也は慎也で良いゾ!無理に周りに合わせることはない。もう我慢するな!」
 僕は大声で返す。慎也も僕の笑顔に応えて叫ぶ。
「皆仲良く平等に!助け合いましょう!」
 僕らのクラスの目標だ。
「でも、僕が苛められていても誰も助けてくれなかった。皆は苛めに集中するために一つになった。仲良くもなかったし、平等は存在しなかった」
 慎也は僕の瞳を真っ直ぐ見て言った。もう、言葉がつまったりしない慎也の新しい声で。
 蛍はタンポポの綿毛のようにフワフワと舞い、慎也を包む。
「もう無理に仲良くしようとか、昔に戻ろうとか思わない。幸太がいる。志穂もいる。僕はもう我慢したりしない!」
 慎也の唇から溢れる言葉は力強く、魂が宿っている。
「慎也、僕も一緒に闘うよ」
 僕はずっと慎也を守ることだけを考えていた。でも、慎也自身が強くならなければ駄目なんだ。
 慎也と僕は偶然出会った。もちろんクラスの連中だってそうさ。いろんな奇跡が重なって僕らは出会った。『皆と仲良くすること』それはとても大切なことだけど、凄く難しいこと。笑顔の仮面を被って付き合っていたら、本当の気持ちを言えぬまま自分を押し殺してしまう。衝突を避けて表面だけを取り繕っていたら、いつか必ず皺が寄る。誰もが本当の気持ちをさらけ出す機会がほしいのだ。そのチャンスを逃し続けていると、心の皺は深くなるばかり。大人や周りの人達に好かれようと、隠してしまった心は、本来の姿を失い、邪悪なものに変ってしまう。そして、誰もそのことに気付いていない。
 先生が掲げたクラスの目標『皆仲良く平等に!助け合いましょう!』黒板の横に貼られた紙は、新興宗教の胡散臭い勧誘文句のようだ。僕は絶対にそれを剥がしてやる!そして、新しい言葉を貼るのだ。
 勇気を!
 自分の弱さを知る勇気を!
 立ち向かう勇気を!



   十五 夜明け
 張り詰めていた時が、今、静かに終わろうとしている。慎也を襲った闇は、醜い色で隙間なく覆われた世界だった。失ってしまった他者との距離感。慎也の心に土足で踏み込む汚い言葉。諦めと不信を植え付けた。
「目を閉じて深呼吸し、怒りを鎮めなさい」
 父さんはそう言った。
「苦しい時は苦しいと言いなさい。言葉にしなければ相手に伝わらないこともあるのよ」
 母さんはそう言った。
 だけど、慎也は深呼吸することも訴えることもできなかった。凄まじいスピードで慎也を捕らえた負の力は、声を奪い、落ち着ける場所も時間も壊してしまった。
 慎也は言う。
「最初は勘違いかな?と思った。でも、皆は豹変してしまった。僕は食われるためだけに存在する獲物にされた。無関心を装い、外側へ弾き出されたり、退屈したら内側に引き戻されて怒りや憎しみの標的にされた」
 苛められる者は、容易には外の新鮮な空気を吸うことはできない。どんなにもがいても、汚れた二酸化炭素しか吸えない。心を閉ざし、感覚や感情を捨てて石になるしかない。
 だけど、慎也、君は自尊心だけは捨てなかったよね。
「とても静かだね」
「うん。この世界に幸太と僕だけがいるみたいだ」
 苺山の小さな池。お月様が揺れている。流れ星がひとつ、夜空から舞い降りて、池に小さな波紋をつくる。やがてそれは大きくなり、僕らの足元を濡らす。
「夜は好き。そこには僕が存在してもいい空間があるような気がする。でも、心の闇は嫌い。そこには希望と呼べるものがないから。幸太がいなかったら、僕は今こうして生きていなかったかもしれない。少年のように殺される前に死を選んだかもしれない」
 墓地からタンポポの綿毛のような明りがひとつ、ふたつと浮かび上がる。大きくなったり、小さくなったり、まるで息衝いているようだ。
「朝が訪れることを信じられる夜は素晴らしいと、僕は思うよ」
 星明りに照らされた慎也の横顔に僕はそっと囁く。
「幸太、君がいて本当に良かった。ありがとう」
 一晩中、苺山の上から僕らの住む街を見下ろしていた。街灯が金色の光を放っている。
「なんて小さい街なんだろう」
「本当、なんて小さい街なんだろうな」
 夜は終わろうとしていた。東からゆっくりと朝が顔を見せ始めた。世界に再び色が戻っても、それは今までとは異なる新しい色だ。人生は自分の力で色付けできるのだ。そして、人とのつながりが迷いから抜け出す鍵。迷ったら、自分の原点を探せばいい。素直な心で見つめ直せばいい。逆境を恐れずに強くなるためのステップだと思おう。新しい自分になるためには過程が必要だ。逃げては駄目だ。苦しい時こそ、夢を持とう。きっとそれは辛い現実を支えてくれるはずだ。
「幸太、僕は凛とした新しい僕になる」
 瞳を輝かせて言う慎也を僕は心から誇りに思う。抱えていた重い荷物を今僕らは投げ捨てた。新鮮な空気を体中に満たして、さあ、新しい一歩を踏み出そう!



   十六 新しい風
 蝉の声は天空から降り注ぐ無数の爆弾。僕は背中に貼り付いたTシャツをめくり、風を通す。今日は『平和授業』が行われる登校日だ。朝からうんざりする暑さの中、低学年を引き連れて、学校へ向う。
「慎也、暑すぎるから、鞄持ってくれ〜」
 僕の横を歩いている慎也にいつものように広美はねっとりとした声で絡む。
「慎也くん、僕たちのもお願い」
 下級生までもが卑屈な笑顔をつくる。
 いつもなら、言いなりになった慎也がたくさんの鞄を抱えていたはずなのに、真っ直ぐ前を見据え、黙々と歩いているではないか。まるで周りの声など耳に入らないかのようだ。
「慎也のくせに生意気だゾ!」
 無視する慎也に広美は怒鳴り、後ろから背を押す。
「止めろよ!」
 僕が広美に噛み付くと、慎也は僕の目を見て、小さく頭を振った。そして、「自分で持てよ!」と、力強い声を出した。
 広美や下級生たち皆は、その気迫に驚く。僕は志穂と目が合うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「な、なんだと、コラッ!」
 広美が慎也の頭を押さえつけようとした時、志穂が広美の腕を力強く払い除け、「いい加減にしなよ!自分の荷物くらい自分で持ったらどうなのよ!」と、声を荒げた。
 広美は思いも寄らぬ展開に、「待っていろよ、今にその反抗を後悔させてやる!」と、吐き捨て、学校へと続く道を睨んだ。
 開け放たれた窓から風が入ることもなく、教室は澱んだ空気が漂っている。久し振りに登場した標的に、男子たちはニヤニヤと含み笑いを浮かべている。慎也の机の上には、菊の花が飾られていた。僕が慌てて慎也の傍に駆け寄ろうとした瞬間、慎也は凛とした声で言った。
「綺麗な花をありがとう。でも、僕の机だけじゃ勿体無いよ。皆の見える所に飾ろう」
 菊の花が生けられた花瓶を持つと、慎也は教室の脇にある机に置いた。広美を中心とした男子は、自分の目の前に映る光景を信じられないといった風に目を丸くして呆然と立っていた。
「慎也、お前」
 僕は慎也の手を握り締めた。以前のように怯えて、冷たく震える手ではもうなかった。慎也は真摯な眼差しを僕に投げ、「幸太、大丈夫だから」と、力強く言った。
 担任の先生が教室に入ってきても、誰も慌てることはない。
「この菊の花は?」
 先生が問うと、慎也は「教室を綺麗にしたい誰かが持ってきたみたいです」と、笑顔で応えた。先生は菊の花の意味を知っているに違いないのに、関わるのが面倒くさいから、「ああ、そうか」とだけ小さく頷いた。僕は改めて先生に失望した。クラスの平和を守れない大人が、平和について語れるのだろうか?
広美は慎也の後ろの席に移動し、椅子を蹴り上げる。生徒が勝手に立ち回っても、何も言わない先生。ゴツゴツと鈍い音がしても聞こえない振りをしている。すると、慎也が突然後ろを振り向き、立ち上がった。不敵な笑みを浮かべていた広美の顔が一瞬固まる。
「先生!広美が僕の椅子を蹴り上げて、先生の声がよく聞こえません」
 クラスの誰もが自分の耳を疑った。
「ひ、広美くん、そ、そんなことをしてはいけないよ」
 慎也の言葉に先生も驚き、慌てる。慎也の声はもう吃ることはなかった。
 荒んで重くなるばかりの澱んだ教室に新しい風がようやく吹き込もうとしていた。空気が流れをもった。



   十七 裸の心
 先生が教室から出て行くと、広美を中心にした男子たちが慎也を取り囲む。
「慎也のくせに、生意気だゾ!」
 慎也を罵倒する刺々しい雰囲気が怖いのだろう、女子は教室の隅に固まって小さくなっている。両耳を塞ぎ、泣き出す子さえいる。その中で、志穂だけが拳を握り締め、広美たちを凝視する。僕も広美を睨みつける。いつ暴力が始まってもおかしくない状況だ。
「広美、いい加減にしろよ!皆も目を覚ませ!前は仲良しだったじゃないか!」
「そうよ!幸太君の言う通り!見たくもない苛めを毎日見せ付けられる立場にもなりなさい。こっちも痛くなるよ。どうして、苛めるのよ!」
 涙声の志穂が頬を濡らして訴えても、広美は薄ら笑いを浮かべて言う。
「どうして?って言われても。慎也、無抵抗だから」
「最初は止めてくれって抵抗していたでしょ!優しさの欠片もないアンタたちが、慎也君から言葉も気力も奪ったんでしょ!」
「あれで抵抗していたの?弱っ!慎也く〜ん、情けないな〜」
志穂が慎也を庇うのが癪に障るのか、広美から卑屈な笑みは消え、怒りが露骨に現れた。そして、慎也の髪を乱暴に引っ張る。
「止めろよ!」
 慎也は広美の手を払う。
 広美は慎也の度重なる反抗に苛立ち、志穂を見据えて怒鳴る。
「志穂!慎也みたいに苛められてもいいのかよ!コイツを庇うんじゃねぇ!」
「情けない!アンタみたいな馬鹿と同じクラスだなんて、もううんざり!」
 男子の輪の中に入り、志穂は慎也の両手を力強く包み込む。
「慎也君、私、今まで見ているだけでゴメンね。あなたが持った勇気、立派よ。遅くなったけど、私も勇気を出す!」
 志穂は広美の鋭利な眼差しに尚も立ち向かう。
「慎也君が立っている場所、怖い。こんな風に皆に取り囲まれたら、誰だって逃げ出したくなる。生きているのが辛くなる。
広美、慎也君が一人で立ち続けたこの場所に立ってみなよ!アンタはこの恥ずかしさと苦しみに耐えられるの?」
 志穂は教室の片隅で怯えている女子に言葉をかける。
「苛めを見て見ぬ振りするのは良くないわ。もう終わりにしましょう」
傍観者でいるより、輪の中に入り、解決策を見つけ出そうと、志穂は促す。
 その勝ち気な鼻梁に、広美は嫌悪を露わにして、教室の片隅で怯えている女子を脅す。
「お前らも苛められたいのか!」
 張り詰めた雰囲気に何も言えないでいる女子に、志穂は懇願する。
「お願い、皆、勇気を持って!」
 志穂の首筋にうっすらと汗が浮かんでいる。容赦なく照りつける真夏の光線が、教室に降り注ぐ。志穂の投げかけに誰も言葉を返せない。校庭の木々から聞こえる蝉の声さえも遮断されたかのような静けさだ。
 しばらく俯いたまま動けずにいた女子の中から、以前太っていることをからかわれていた子が飛び出した。
「志穂、私、勇気を出す。苛められる辛さはよく解るもの。慎也君を見ていて、次はまた私になるんじゃないかと、いつもビクビクしていたの」
 次に勉強熱心な子が飛び出した。
「苛めのせいで、授業に集中できない。毎日張り詰めた空気の中で勉強するのにはもう耐えられない!」
 志穂の投げかけに、一人また一人と女子は今まで我慢してきた思いを打ち明ける。皆の心の中でのた打ち回っていた苛めに対する恐怖、不満、疑問などが、志穂によって出口を見つけ、一気に外に溢れ出したのである。
 広美は頬の筋肉を痙攣させ、「お前らのペットも殺されていいのか!」と、女子に詰め寄る。
 その言葉に僕は思わず広美の股間を蹴り上げた。
「その前に広美!テメーを殺すんだよ!」
くの字に折り曲がった広美の無防備な後頭部に、僕は拳を乱暴に沈める。風呂に浮いていた猫・たおんを思い出すと、やり場のない怒りと哀しみが込み上げてくる。
「僕の大好きだった猫は、お前に殺されたんだ。もう帰ってこないんだ!」
 床に泣き崩れる僕の肩を慎也は優しく抱き締めてくれた。
 志穂はたおんの亡くなった理由が解ると、広美を露骨に軽蔑した。
「狂っている。広美、アンタ、間違いなく狂っている。幸太君が大切にしていた猫だってこと、知っていたでしょ!」
 広美は床に唾を吐き、「いつまでも幸太が慎也を庇うからだよ」と言って、志穂から視線を外した。
 志穂は広美を取り囲む男子を悲しげな瞳で見つめて、「皆もこんな恐ろしいことに関わっていたの?」と問い詰める。
 僕の猫が殺されたことを初めて知った男子は、一歩後退りし、広美から距離を置いた。
「知らなかったのね」
 志穂は頭を振り、女子の輪の中へ戻る。そして、広美を取り巻いていた連中も、「ペットを殺すのはやっぱマズイよ」と次々に口にして広美から離れていった。
 家庭の中同様、いつも注目を浴びていた広美が、初めて独りになった。
「な、なんだよ!お、お前ら、気持ち悪い慎也の味方をするのかよ!」
 広美は自分の置かれた状況をうまく把握できないのか、パニックに陥ってしまった。唇がわなわなと震えている。
「猫を殺すほうが気持ち悪い。もう、広美とは友達になれないよ。慎也を苛めるのをもう止めてもいいだろ。くだらないことに関わりたくないよ」
 クラスのあちこちから言葉が漏れ、誰もが広美を蔑視し始めた。
「裏切るんだな!お前らも調子に乗って、慎也を苛めただろ!」
 広美は今にも泣き出しそうな表情をし、両手で頭を抱え、激しく振り始めた。
「慎也がTVや新聞に取り上げられて、面白くないから、苛めようって、広美が言い出したんだろ!注目を浴びている慎也が羨ましかったんだろ!」
 クラスの連中は、広美の提案に乗ったことを棚に上げ、苦しい言い訳をしている。誰もが責任転嫁をし、慎也に詫びようとはしない。過ちだと知りつつ続けていたゲームを、今はっきりと間違いだと指摘された。自分の愚かさを認める勇気がないのである。
 慎也はその光景を、悲しげな瞳で見つめている。そして、孤立した広美に歩み寄り、両手を握り締める。まるで包み込むかのように。
「広美、どうして僕が羨ましかったの?僕と違い、お母さんもいるし、お金持ちで誰もが簡単には買ってもらえないような物ばかり手にしているのに。それに僕みたいに背が低い訳でもない。クラスで一番背が高くて、成績も良い。僕はマスコミに取り上げられて嬉しいだなんて思ったこと、一度もないよ」
「うるさい!」
 広美は慎也の両手を払い除けた。
「お前には幼い頃からの親友・幸太がいるじゃないか!俺が入り込む隙間がないほどの繋がりがある!俺にはそれがない!」
 広美は発狂したように天井を見上げて叫ぶ。
「羨ましかった。監禁事件や食中毒事件でお前ら二人の繋がりは更に強くなった。慎也はニュースで取り上げられ、学校だけでなく、日本中から心配され始めた。だから、俺はそれを壊したくなった!」
広美は慎也が監禁事件で見たものを、そして販売店がマスコミの加熱により、顧客が離れていったことも知らない。いつも注目され期待され続けた広美は、晒し者にされる苦しみを知る筈もない。
「仲良しのお前らを見ると、俺もそんな友達が欲しくなった。でも、皆、背の高い俺に気遣ってばかりで、本音で話そうとしない!近寄って来る理由は、親から与えられた新しい玩具が目当てなんだ。俺も幸太や慎也のように苦しい時に助け合える友達が欲しかったんだ!」
いつも強さを装っていた広美が、初めて裸の心を晒した。僕は何故、広美が嫌いだったのかが、今ようやく解った。それは生理的な嫌悪ではなかった。素直に感情を表現しない広美が、僕の幼い心に壁として立ち塞がっていたのである。だから、心を許して遊べなかったのだ。
居場所を失い、泣き崩れる広美の手を、慎也はもう一度握り締めた。
「広美、もういいよ。君の言う通りだ。僕には幸太がいた。どんなに辛い状況に追いやられても、一緒に闘ってくれる親友だ。君が心を許せば、いつかきっと君にも親友と呼べる友達ができるよ」
慎也を殴り続けてきた広美の両手には、何が伝わっているのだろう。慎也は力強くその手を握り締め、広美に告げる。
「でもね、どんな理由があろうとも、してはいけないことがある。苛めはとても怖いものなんだ。苛められた者もその家族も慣れることのない哀しみに襲われる。苛める者は暴力に慣れ、犯罪へと発展していく。関わった人々が皆、不幸になるんだ」
 慎也は、クラスの皆を見つめる。もう誰も責任を押し付けあったりしていない。ただ、慎也の続く言葉を待っている。
 教室をさ迷っていたトンボはようやく出口を見つけ、夏空へと帰って行く。窓からは秋を予感させる涼しい風が流れてきた。
慎也はゆっくりと語り始めた。
「僕があの監禁事件で見たもの全てを皆に話すよ。だから、一人一人が考えてほしい。暴力で人を支配することの恐ろしさを。そして、その悲しい結末を。僕が最後に見たおぼろげな月夜の話まで」
 脆弱な月に浮かんで見えた少年の墓標・白いミニローズは、今宵、夜露のような涙を浮かべるだろう。



             おわり