脆弱な月

          文 克

   一 監禁
 小学五年生の新学期早々、僕の友達・慎也は突然姿を消した。ゴミ捨て禁止と書かれた張り紙のある荒地でキャッチボールをしたのが最後で、「また明日な」と声をかけあった友人はその日帰宅することはなかった。慎也の父親が必死に探している様子は、夕食後にかかってきた電話の声で痛いほど伝わってきた。警察への捜索願も虚しく、慎也の行方は掴めなかった。
既に習慣化していたニュースを見るという行為にようやく光が射したのは、GW明けの五月だった。身代金すら要求しない女性に一ヶ月近くも監禁されていたのである。犯人は動機についてまだ何も語っていないという。
慎也の父親が涙ながらに我が子を抱いている姿に、僕の両親も涙を流した。画面を食い入るようにして僕は報道陣に囲まれた慎也を目で追った。無傷だったが、瞳が虚ろで焦点があっていない。髪が伸びてところどころ跳ねている。目の下に隈があり、肌は理科の実験に使われた光を浴びていないモヤシのようだ。号泣する父親の胸の中でさえ、まだ怯えているように見えた。
食卓に届けられたその映像は、あまりにも現実からかけ離れた出来事だったので、慎也が帰ってきたという喜びよりも、身近な人間がこのような事件に巻き込まれていたという事実が僕の心にまとわりついた。
次の日、五年生の教室ではその話で持ち切りだった。興味の対象は、犯人の動機と監禁生活だ。大人たちの心配をよそに、日常に潜んでいる恐怖は、まるで台風上陸を待ち望むような興奮と幽霊や未知の生物を発見したような好奇心を皆に与えていた。
授業開始前、担任の先生は慎也への励ましの手紙を書くように言った。事件後、監禁という強度のストレスが、慎也の心や身体に悪影響を与えているに違いないので、父方の実家からしばらく通院するらしいのだ。僕はただ慎也が一日も早く学校に戻ってくることだけを祈りつつペンを走らせた。
『君の笑顔を守るため、僕はいつもそばにいる。君の声になり、手や足となり、闇に迷う君を照らす灯りになろう。忘れないで、君は決して独りではない。僕はいつも君の望む場所にいる。』
僕は学校帰り居るはずもない慎也の家へ寄ってみたが、マスコミ関係の人ばかりでとても近寄れそうになかった。毎日のように遊びに行っていた家が、全く別のものとして目に飛び込んできた。まるで、陰湿な生き物が生息しているような日常性に欠けた雰囲気をかもし出している。



  二 痛み 
 慎也が戻って来たのは、七月の最初の月曜日だった。慎也は酷く無口で、クラスの皆もどう声をかければよいのか分からなかった。変に緊張した空気で動き辛かった。「久し振り!」って声をかけたけど、慎也は薄く微笑んだまま萎れた花のように生気がなかった。
 授業中、後ろの席の広美がメモを回してきた。恐ろしく背の高い奴で、僕はどうしても友達の一人として認めることができない。こういう人のことを、大人は生理的に受け付けないというのかな?どんなに良いところを探そうとしても見つからず、もしあったとしてもその人の人格などお構いなしに嫌悪だけが生まれてくる。殺してしまいたいほど嫌な奴って言えば大袈裟だけど、やはり僕はどうしても広美だけは好きになれない。「お前なんて死ねばいい!」って言えたら最高!何をしても癇に障る。きっと苛めというのはこういう気持ちから生まれるんだろうな。僕が嫌っていることをたぶん知らないだろう広美は、僕が無視してメモを受け取らずにいると、後ろから椅子を蹴り上げてきた。
「おい。幸太、これを皆に回してくれ」
 前かがみになると、真横に顔が来そうなほど長い身体を折り曲げて、ヒソヒソと話す。
「慎也、気持ち悪くないか?アイツがいると教室が暗くなるし、変に気を使うから疲れるんだよな。帰ってこなければ良かったんだ」
 僕はその言葉を無視し、結局メモは受け取らなかった。内容は読まなくても分かる。全身を駆け巡る怒りを抑えながら、僕は平静を装った。
 しかし、放課後、僕は広美を中心にしたグループに呼び出された。グループと言ってもそこに友情があるか怪しいものだが、いつも徒党を組んでいる。
「どうしてメモを受け取らなかった?」
 広美は狐みたいに吊り上った細い目を更に細めて言い放った。
「どうせくだらない内容だろ」
 奴の目を真っ直ぐ見据えて僕は受けて立った。夏の強い陽射しのせいか、激しい怒りからか僕の頭はくらくらしていた。
「くだらないかどうか見てみろよ」
 目の前で広げられたメモを見た途端、僕は背中からランドセルを咄嗟に取り、奴の顔面に思い切り投げつけた。金具が広美の頬に当たり、血が滲み出た。初めて人を殴った時の鈍い音が、頭の中で何度も鳴り響いた。
「広美、お前は本当に最低だ!大嫌いだ!お前がこうして生きていることが我慢できない!」
 でも、僕の叫びも虚しく次の日から教室の誰もが慎也に余所余所しくなっていった。メモにはこう書かれていた。
『慎也は教室を腐らせる毒です。みんな、近寄らないようにしよう。感染するゾ!』



   三 悪化
 学年やクラスによってカラーが違うと大人たちは時々口にする。悪ふざけが目立っても連帯感のあるクラス。家族みたいにほのぼのとしたクラス。活気には欠けるが勉強熱心なクラス。確かにいろいろと特徴がある。僕らのクラスは、いつも張り詰めたような緊張感がある。その原因はたぶん広美だと思う。身長が百六十センチ以上ある広美は、他人に有無を言わせない威圧感があるのだ。もし広美がいなかったら、雰囲気は一変すると思うのだが、進級するまでは我慢しなくてはならない。
 監禁事件の被害者となった慎也を広美は好奇な視線で舐め回し、暗く陰湿な存在として扱うようになった。広美が放つ陰鬱なリズムは、皆の隠していた悪戯な好奇心を刺激し、教室が振動するほどの大音量で鳴り始めた。僕は皆が未知の恐ろしい世界へ足を踏み出したように思えてならなかった。広美の発案は些細なきっかけに過ぎず、人の心に眠っている邪悪な部分をあの事件は目覚めさせたのかもしれない。
 夏休み前の浮き立つ気持ちを更に盛り上げるイベントのように苛めはどんどん酷くなっていった。
僕は自分の無力さに愕然とする。僕が居ない場所で慎也は苛められる。
 風邪を引き、母さんが休みなさいと言うのを振り切って遅れて登校した日、ランドセルを背負ったまま廊下に腹這いになった慎也を僕は見つけた。クラスの連中は、慎也の背中目掛け、大袈裟にジャンプする。廊下に運び出した机の上から飛び降りたり、助走し三段跳びで慎也の背中に着地してポーズをきめたりしている。慎也のランドセルはすぐに不自然な歪みを見せ、ボロボロになってしまった。
 慎也は苛められるような子ではなかった。快活な笑顔で人を魅了したし、繊細な骨格のくせに勝気で自分より背の高い広美ともよく衝突していた。しかし、事件後の慎也は口を動かす気力もないように見えた。まるで、元気の源を奪われたみたいだ。
 慎也も級友も含め、人はこんなにも激しい変貌を遂げるものだろうか?
 僕は無抵抗のまま潰れた虫みたいに廊下に張り付いている慎也を目の前にしても、すぐに苛めを止めることが出来ずにいた。慎也の歪んだ顔をただ呆然と見ていた。涙さえも搾り出せぬ悲痛な瞳。夏服から伸びている痩せ衰えた腕や脚は、紫色の染みや出来たばかりの擦り傷が至る所にある。瀕死の状態で虐待から逃げ出したかのようだ。
「た、助けて、幸太」
 僕は慎也のか細い声で我に返る。
「やめろよ!皆、どうかしているゼ!」
 僕は不敵な笑みを浮かべている広美を見据える。こいつは人間の皮を被った化け物だ。もう殺すしか手はない。先生なんて当てにしていちゃ駄目だ。「どの子も平等に可愛い」なんてくだらないことを言うんだ。どの子も皆可愛いもんか!僕は広美ごとこのクラスを壊してしまいたい衝動に駆られた。
 僕は慎也の傍に跪き、固く強張った手に触れる。
「大丈夫?立てるか?」
 水色の半袖のシャツは、無数の上履きの跡が残っている。
「ごめんな、慎也。風邪引いちゃって、遅刻してしまった」
 心も身体も傷ついているに違いないのに、慎也はゆっくりと起き上がり、僕に柔らかな笑みさえ見せる。
「こ、幸太、か、風邪、だ、大丈夫?」
「心配ない。それより保健室へ行こう」
 僕の健康を気遣ってくれる慎也の健気な瞳を見ると、僕は更に怒りが込み上げてきた。
「お前ら、こんなことして何も感じないのかよ!慎也はようやく帰ってきたんだゼ!」
広美の周りを取り囲んでいる連中に唾を吐く。
「気持ち悪いゼ。監禁されていた時、コイツ何をされていたのか想像するだけで吐きそうになる!先生も周りの大人たちも皆、腫れ物を触るみたいに慎也を扱いやがって!ニュースや新聞で騒がれたお陰で、全国から励ましのお便りなんか貰って悲劇の主人公気取っているんじゃないの?苛められても抵抗しないし、監禁されていた時、男として大事なもん失ったんだ。俺だったら、簡単に逃げ出せるし、まず誘拐されたりしないね」
 広美は慎也を見下したように、「根性ね〜」と嘲笑った。そして、始業のベルで、「撤収〜」と、広美はギャラリーに言った。皆はゾロゾロとそれぞれの教室に吸い込まれていく。
 二人だけになった廊下に、トンボが一匹舞い込んできた。僕らの上を自由に旋回し、夏空へと帰って行く。
「トンボはいいな」
 僕が呟いた言葉に慎也は俯いたまま真冬の冷たい微風のような声を発する。
「家に舞い込んできたトンボって、窓ガラスに向って何度も突進するだろう。羽を忙しくばたつかせ、自由な空を求めて、必死で帰ろうとする。運良く誰かに気付かれて窓が開けば良いけど、もし閉ざされたまま密室に居たら、力尽きそして干乾びて死んでしまう。僕も同じだった。ただ、運が良かっただけだ」
 慎也は眩しい夏の光を避けるように教室へ戻った。
 慎也はあの監禁生活で一体何を見たのであろう。肌の奥深くまで浸透した陰を纏った細い背中を、僕は見ているしかなかった。



   四 夏休み
 夏休みになっても、広美を中心としたグループの苛めは衰えを知らず、加速度を増していった。慎也の父親が経営する販売店にまでやって来た。用もないのに店先に立ち、ふざけて囁きあっていた。
「ここが食中毒事件を起こした牛乳を売っている店ですか〜」
「それだけではありません。なんと、ここの息子は誘拐されて一ヶ月にも及ぶ監禁生活を過ごしていたそうですよ」
「いや〜、怖いッス!負のエネルギーに満ちていますね、この家は!」
 広美たちは時にリズムをつけて歌ったりもした。
「ド、ド、ドク、ドク、ドク牛乳。慎也の父さん、毒入り牛乳売っている!」
 不快なリズムを聞きつけて、おじさんは表に出るなり怒鳴った。
「毒など入っていない!慎也をからかうのもいい加減にしろ!」
 激怒するおじさんの姿が滑稽に見えるのか、広美は口角を上げて罵った。
「だって本当のことだろ!もう誰も慎也の家の牛乳は飲まないゼ!」
 嫌悪の色を露わにした口調で捨て台詞を吐き、広美は立ち去った。
 慎也と同じようにおじさんも孤立していった。どうして、販売店の親会社は美味しいものを作るという気持ちを忘れてしまったのだろう。いつも末端のものばかりが酷い目に遭う。おじさんの販売店は食中毒事件をきっかけに解約する人が急増した。
 やり場のない怒りで震えるおじさんの背中を僕は見ていた。慎也は俯いたまま何も言わず、持ち主の決まっていない真新しい人形のように表情を崩さなかった。
「なあ、慎也、嫌なことは忘れて、プールに行こうゼ!」
 浮雲が流れる真夏の空の下、僕らは時々プールに通った。近くのリゾートホテルのプールなので、少々高い利用料金だったが、学校の連中がいないため、伸び伸びと泳ぐことが出来た。
 母さんが買ってくれたビーチボールを追い、潜水時間を競い合い、巨大な滑り台で水飛沫を立てていれば、一日はあっという間に終わる。僕らはチョコレート色に近づく肌を比べあった。背中を向けて着替えをする慎也のお尻は真っ白で、僕が裸でいても水着をつけているみたいだと笑った。慎也は薄く笑うだけだったが、きっとこれも事件の後遺症なのだろう、と僕は思った。
 時々、ふっと声を漏らすだけの慎也は、本当に時間が経てば元の慎也に戻るのか、僕をいつも不安にさせた。
「もっと黒くなって、夏休み明けの日焼けコンテストで優勝しよう」
 僕が微笑むと、慎也は軽く頷き、「黒くなれは、殴られた傷も分からないからね」と言った。



   五 僕の猫
 僕の猫の名は、たおん。雄猫だ。僕が学校帰りに拾ってきた。小学二年生の三月、終業式の日のことだ。一斉下校だったけど、僕だけまだ九九を完全に覚えていなくて、いつものように担任の先生と補習をした。帰り道にはもう友達の姿はなく、僕は独りぼっちだった。劣等感と上手く付き合う方法も知らず、ただ根気よく続けるしかなかった。心細く疎外感に悩んでいた時、道の真中で丸くなって震えている子猫を偶然見つけた。トラックが前からやって来て、子猫の頭上を走り抜けていく。子猫は「タオ〜ン。タオ〜ン」ってないていた。このままだと車に押し潰されるのは必至だ。そう思った瞬間、僕は車が走り抜ける道路に飛び出し、気付けば子猫を抱き上げていた。
「ねえ、お兄ちゃん、たおんってどういう意味?」
 幼い妹が大きな瞳で尋ねる。
「たおんはフランス語で可愛いって意味なんだ!」
 僕は思いつきで嘘をついてしまった。すると妹はすっかり感心した表情で、「すごい!お兄ちゃん、フランス語知っているんだ!」と言った。僕はいい加減な嘘を誉められて居心地が悪くなった。
 たおんはいつも僕の傍にいた。炬燵の中で丸くなったり、ザラザラの舌で僕の頬を舐めたりしていた。寝転がって本を読んでいると、本の上に座り動かなかった。春の夜、赤ん坊のようになき、恋人が出来ると、しばらく帰って来なかった。白と灰色の縞模様が、キラキラと輝き綺麗だった。
でも、僕の大切な友達・たおんは、慎也の腕の中で固くなってしまった。もうあの頃のように呼んでも応えてはくれない。たおんは肉体を残し、もう二度と帰らない場所へと消えていった。爺ちゃんの大好きな朝風呂の残り湯を、母さんが捨てようとしたら、たおんが浴槽の中で死んでいたのだ。母さんの叫び声に驚き、僕と慎也は慌てて風呂場に走った。 うろたえる僕と母さんの間に入り、慎也は躊躇することなく、浴槽からたおんを抱き上げた。
「ねえ、たおん、もう一度、タオ〜ンとないてくれ」
 剥製のように動かなくなったたおんに僕は何度も呼びかける。哀しみが突然訪れるなんて、僕はまだ知らなかった。ただ込み上げる涙を感情に任せ、流し続けていた。慎也だけが僕の溢れる涙を受け止めてくれた。
 たおんは、僕らの生活の中から突然姿を消してしまった。もう餌をおねだりする甘えた声を聞くことはない。綺麗な姿勢で俊敏に動く様を見ることもない。別れは予告なくやって来て、残された者たちを哀しみの底に沈めてしまう。僕はたおんと過ごした記憶の断片を拾い集め、その欠片の鮮明さにまた涙を流す。
「なあ、たおん、冬はお前がいないと寒すぎるよ」



   六 抗議
 慎也のお父さんは、夏休みが終わるとすぐに働きに出た。隣町にある物流センターというところに職を見つけたのである。そこは、スーパーに卸す前の様々な商品が運ばれてくる。おじさんの担当は仕分け作業で、販売店より巨大な冷蔵庫があると言う。
 おじさんは顧客が増えるまで働くらしい。仕事帰りにビラを持って各家庭に配布する。
「安心して飲んでいただけますから、よろしくお願いいたします」
 深々とお辞儀するおじさんが痛々しく見える。
 牛乳ケースを持つおじさんの手には、たくさんの硬い豆がある。太くて逞しいカサカサの乾いた手で、僕の両手をギュッと握り締め、「幸太君、慎也と仲良くしてくれよな。おじさん、ひとり息子の慎也のことが、心配なんだよ」と、言った。剥けた豆がちょっと痛かったけど、僕は力強く頷いた。それは、おじさんとの『男の約束』だった。
 おじさんは何度も小学校に足を運んだ。担任の先生に苛めについて抗議もした。
 しかし、面倒なことには一切関わりたくない先生は苛めの事実を否定した。
「どの子も良い子ですよ。お父さんの勘違いですよ。男の子ですから、プロレスに興じたり、サッカーをして足を痛めたりしたのでしょう」
「他の子のランドセルを持たされていたのを出勤途中見たんだ!」
 おじさんが目にした事実を並べてみても、先生は呑気に言う。
「あ〜、慎也君、ジャンケン弱いから」
 僕は先生とおじさんのやりとりをただ見ていた。職員室の来客用ソファに沈んだまま、慎也と僕は何も言えなかった。おじさんに苛めの証人になってほしいと頼まれたのに、僕は酷く惨めに萎れるしかなかった。僕は先生に「余計なことを言うな!」と口止めされていた。
 どうして、大人は面倒なことを隠そうとするのだろう。また、何故、他人は自分とは無関係なことに鈍感なのだろう。そして、僕はどうして口を閉ざしていたのだろう。



   七 破裂
 僕は舌打ちをする。もしも、慎也ではなく、広美が苛めの標的だったら、僕はどうしていただろう。僕も皆と同じようにランドセルを持たせたり、腹を蹴り上げたりしていただろうか?格闘ゲームの技を広美の身体を使って試すのか?
分からない。
もしも、広美が相手だったら、苛めないという自信がない。僕の心の中にもきっと陰湿な悪魔はいるに違いない。
僕は空想の中、広美を執拗に殴り続ける。
「でも、思うだけで実際に殴ったりはしないだろう?」
 お風呂に入っている時、父さんは僕に言った。「うん」と、頷いたけれども、恐ろしい場面を思い描く自分が怖かった。
「欲望を理性で抑える力が無い子が、苛めをするんだよ。人間だって動物さ。強い野性はある。誰かを支配しようという衝動を持っている。完全に清潔な人はいないよ。幸太、そんなに自分を責めるな」
 父さんはそう言って、僕の日焼けした背中を流してくれた。
父さん、もし僕が苛められたら、おじさんみたいに学校に怒鳴り込んでくれる?
 慎也、もし僕らが逆の立場だったら、君は僕を守ってくれる?
 二学期になり、席替えをしたにも関わらず、僕の後ろの席に広美はいた。
「なあ、何故慎也と仲良くするんだよ!」
 そう言って、僕の座席を先生に見つからぬように蹴り上げる。どうせ、先生に見つかっても、広美と僕を適当にたしなめるに決まっている。先生は『適当』を信条としているから。
 無視していると、広美はノートの端をちぎり、走り書きしたメモを回してきた。受け取らないでいると、「幸太の猫が死んだ理由、知りたくないのかよ」と、悪戯な含み笑いで言った。
「たおん?たおんの死んだ理由?」
 僕は広美の手からメモを奪い取った。
『幸太が慎也と仲良くするから、俺が猫を殺した。首を締めて、風呂に沈めた。お前の大切なものを奪ってやった。テメー、生意気なんだよ!』
 メモを読み終えた次の瞬間、僕は広美の手の平にコンパスを突き刺していた。
「ギャー!」
 たおんの悲痛な叫び声もこんな感じだったのだろうか、広美は痛さのあまり椅子から転げ落ちた。
 僕はどうしてしまったのだろう。クラス中の皆が僕らを一斉に見る。慎也も細い目を見開いて僕を見ていた。
 ああ、父さん、僕の理性は壊れてしまったよ。



   八 豚と猫
 TVのニュースでは、最近増加する少年犯罪についての特集が頻繁に組まれている。僕の住む県内でも十五歳の少年が金属バットで幼馴染の少女の一家を殺傷するという痛ましい事件が起きた。
 少年犯罪のニュースを見るたびに、僕は息苦しくなる。見えない重い空気に押し潰される。慎也の悲痛な顔が浮かび、苛めが犯罪にまで発展しそうで怖い。
 僕が見ているのは、苛めについての特別番組で、苛める側と苛められる側がスタジオに集められて『少年犯罪と苛め』について討論するという企画である。
 女子高校生をコンクリート詰めにし、殺したという事件が一例として取り上げられている。性的悪戯のために部屋に監禁し、肉体に飽きたらリンチを加える。また、十九歳の会社員が高校時代の級友に金を奪われ、命の炎が燃え尽きる瞬間まで監禁されていた。絶望の淵で喘ぎ続けたあげく、両親へ感謝と謝罪のメモを残していった。TV画面には人間の尊厳を奪われた子供たちの遺影が映されている。加害者の少年たちは成人し、何事も無かったかのように建前の更生をして、社会に紛れている。被害者の家族の涙は、加害者の心を貫くことがあるのだろうか?
 TVでは苛める側が優勢だ。他者を威圧するパワーはずば抜けて見えるし、口もよく動く。それに比べ、苛められている側は、喋る度、辛い現実や過去が蘇ってくるのかワナワナと震えるだけで声にならない。中には号泣する人さえいる。
 苛めることが快楽となり、エスカレートして止まらない人もいるらしい。また、苛められる側に原因があるという人もいる。
 本当にそうなのか?慎也が監禁事件や食中毒事件に巻き込まれたのが原因なのか?それとも、たまたま慎也だったのか?
 苛められないために他人と歩調を合わせることが協調性なのか?いつも強がっていなければならないのか?自分の弱みを見せるのは、避けるべきこと?友達という言葉は、なんて酷く曖昧なのだろう。何故、苛めを止める勇気を皆持てないのだろう。苛めの輪に加わることで、友情を繋いでいるの?ただの保身にすぎないように僕は思えてならない。集団が間違った方向へ進んでいるのを誰もがただ傍観している。
 苛めが快楽になりうるという精神科医の言葉を聞きながら、僕は自問自答を繰り返していた。その時である。いきなり広美の母親が僕の家に押しかけて来た。
「幸太君を出しなさい!」
 顔の肉が見事にたるんだおばさんが、しきりに僕の名を呼んでいる。僕が無視していると、リビングの中までドカドカと上がりこんで来た。
 醜い豚だ。TVを見ている僕の背中に荒い息遣いが届く。暑苦しくて臭い。
「幸太君!息子になんてことをしたの!」
 豚はブーブー言っている。息子は痩せこけているのにな。
 母さんが僕のしたことを知り、おばさんの後ろで慌てている。
「ちょっと待ってください。何かの間違いです。幸太はそんな恐ろしいことをする子ではありません」
 必死になって僕を庇う母さんの声はきっと届いていない。おばさんは、玄関に待たせておいた広美を呼び出し、母さんの目の前に傷ついた手を突き出させた。
 僕はその痩せた手が慎也を殴り続けていると思うと、コンパスを突き刺しただけでは物足りない感情が噴き出した。
 母さんは僕の前に回りこみ、「幸太がしたの?」と、事実を否定したい気持ちを露わにした。
「ゴメン」
 僕は母さんの目を見ることが出来ず、呟くだけだった。
 事実を認めた僕が、怒りを更に増長させてしまい、おばさんは座っている僕の胸倉を掴み、「広美に謝りなさい!」と叫んだ。
 僕は宙ぶらりんだ。早く大人になりたい。こんな豚を追い抜くほどに。
「幸太、どうして?」
 母さんは必死で涙をこらえているが、声が震えている。
 母さん、僕は本当に悪い事をしたのかな?
 僕はおばさんに胸元を掴まれ、広美の前で執拗に叱られる。広美はいつもの意地悪な含み笑いを浮かべていた。
 おばさんの手が緩んだ頃を見計らって、僕はポケットからメモを取り出し、おばさんに差し出した。
「広美からの手紙。お前の息子が、僕の猫を殺したんだ」
「そんなこと、私の広美がする筈ない!」
 おばさんは僕を怒鳴りつけ、ヒステリックにメモを奪った。
『幸太が慎也と仲良くするから、俺がお前の猫を殺した。首を締めて、風呂に沈めた。テメー、生意気なんだよ!』
 それを見たおばさんの手はワナワナと震え始めた。
「猫と人の命、どっちが大切なの!」
 そう叫ぶと、痩せこけた息子の手を引いて、帰っていった。
「ねえ、おばさん、僕の手の平を突き刺してもいいから、僕の猫を返してよ」
 果たして僕の声は届いたのだろうか?
 TVでは、苛められた経験のある少女が、涙ながらに訴えている。声にする度、当時の痛みが蘇ってきているに違いない。また、苛めが原因で自殺した子の父親が、息子の遺書を読み上げる。同じ哀しみが増えぬようにと、被害者は事実を語り続ける。
 人は誰も祝福されて生まれてきたんだよ。



   九 れんげ畑
 年賀状はクラスの女子から数通。通知表の先生からの所見欄には、協調性欠如と書かれていた。毎年開かれていた友達とのクリスマスパーティには、招待されなかった。バレンタインディは、チョコひとつ貰えなかった。
 年賀状は慎也が手渡してくれた。通知表を見た父さんは、「お前には勇気がある」って言ってくれた。クリスマスは、僕の家で慎也とおじさんと一緒に過ごした。でも、チョコは残念だった。
「幸太くんと慎也くんを相手にするなって」
 女子の中でも比較的仲の良かった志穂でさえ、そう言ってうなだれた。
「構わないよ。気にするな」
 僕が言うと、志穂は「ごめんなさい。慎也君が苛められているのを見ていながら、私、何も出来ないで」
 潤んだ瞳で志穂は言った。自分が情けない、と。
 僕は慎也さえ居てくれればそれで良いとさえ思っている。しかし、それは自己満足にすぎない。二人の世界に閉じこもっていては、慎也のために良くない。それは慎也の様子を見れば一目瞭然だ。近頃の慎也は、笑顔を忘れ、沈みきった表情だ。まるで、最初から泣き顔で作られたセルロイドの人形のようである。加えて時々指先が震え、頬が引きつる。声もどんどん小さくなっている。このままだと、声をなくしてしまうのでは?と心配になるほどだ。
 僕らはもうすぐ六年生になる。慎也への苛めも慢性化している。僕がどんなに声を荒げても、誰一人僕に賛同してくれない。皆、傍観者だ。一向に良くならない状況を見ていると、ただひたすら陰湿な暴力に立ち向かっている自分のやり方に疑問すら感じるようになる。僕一人、熱くなることが、慎也と皆の間の溝を更に深めているのではないだろうか?苛めを助長してはいないか?僕はいつしか意固地になっていたのかもしれない。
 春休みのれんげ畑に寝転び、僕は思う。今までは慎也を守ることだけを考えてきたが、これからはどうすれば以前のように慎也がクラスに溶け込めるかを考えるべきではないだろうか。
れんげの花をひとつ摘み、蜜を吸う。見上げた空は、花曇り。画用紙を切り抜いたような光の無い太陽が浮かんでいる。しばらく青さを失った空は、本来の瑞々しさを忘れた僕たちみたいだ。
僕は監禁事件前の慎也の笑顔を記憶の中から検索する。九九や逆上がりを根気よく教えてくれた。一輪車は僕のほうが上達が早かった。母の日には、毎年、母さんにカーネーションを贈ってくれる。二年前の誕生日には僕が欲しそうなものをあらかじめ知っていたかのように、レアな無敵のカードをプレゼントしてくれた。サッカーは得意だけど、野球が苦手な僕を嘲笑うことなく、快くキャッチボールに付き合ってくれた。
でも、今の君はボールを上手く掴めない。ペンを握ることさえ困難になりつつある。吃音が激しく、次の言葉が容易に出てこない。頭皮がピクピク震え、それはやがて全身を駆け巡る。近所の理髪店に一緒に行った時、おじさんが顔の産毛を剃ろうとしたら、慎也は体中を激しく痙攣させて、おじさんは慌てて剃刀をしまった。
慎也、君は日々極度の緊張の中にいるんだね。



つづき