|
チョコ・リッチ・ココア
文 克
不毛だ。と、保奈美は思う。パソコンの出会い系サイトにメル友募集の書き込みをし、送られてくるたくさんのメールの中から自分好みの男を選ぶ。メールでなら、相手のことがより分かるかもしれないという考えが甘かった。会った男すべてが外れていた。そのくせ、いつか自分にピタリと会う男が現れるのではないかと期待している。 桜井保奈美、クリスマスの日に二十五歳になる。誕生日とクリスマスが一緒だと、恋人が居ない年などは余計に寂しい。華やかなイベントを更に盛り上げてくれる男がいたら、どれほど素晴らしいだろう。お気に入りのフランス料理店へ行き、店内の装飾や今年一年について語り合う。ラッピングされた薔薇のリボンを解き、部屋中に飾る。高価なプレゼントはいらない。ただ、来年も再来年も一緒に祝ってくれる心優しい男が欲しいのだ。そんな誠実な男が出会い系サイトの回送ボードに居るはずないと諦めつつも保奈美は投稿し続ける。
クリスマスで賑う商店街は、スノウボールを逆さにしたような雪が、一定の流れもなく舞っている。ふわふわと地面に舞い落ちたかと思うと、北風に吹き飛ばされてまた宙を漂う。冷たく澄んだ空気の中、裸の木々には無数の電飾が煌き、どの店のウインドウにもスプレーで白く描かれたメリー・クリスマスの文字が派手な装飾の中、まるで誰かの結婚式を祝っているかのように目に止まる。
保奈美は独り、閉店した百円ショップのシャッターに背を預け、フライドチキンと焼きカレーが美味しいと評判の店『透明な苺』の入り口を凝視している。自分の背丈ほどある長いマフラーを首に巻き、猫背にならないように、凛とした姿勢を保っている。短いスカートから伸びている自慢の長い脚を組み、サイトで知り合った二十代後半のスーツ姿の男が現れるのを待っている。 一度会いたいと言われ、待ち合わせの場所『透明な苺』に、保奈美はやって来た。メールを通して、お互いの趣味も分かり、包容力のある男だと感じた彼女は、無駄にメールのやりとりを続けるより、実際に会ったほうが手っ取り早いと判断した。誕生日とイブを独りで過ごすのは、あまりにも惨めだ。今度こそと保奈美は意気込む。 約束の時間より三十分早く来たのは、相手がメールを打つのが上手いだけの男だったら、会わずに帰ろうと思ったからだ。もし、女の子のような美しい顔立ちなら鳥肌がたち帰るかもしれない。自己管理ができない肥満気味の男なら、その見事にたるんだ贅肉に、「病気になるわよ」と一言吐くだろう。 彼女が求めているのは、素朴な男。言葉巧みな男より、少々無口な男のほうが良い。高価なブランドに詳しく、外車の助手席を勧めてくる男より、瞳を輝かせて自分の夢を語る男だ。やはり好みにはこだわりたい。 保奈美は、一重瞼か奥二重の優しい目をした男を期待していた。笑うと目がなくなる柴犬のような飾り気のない男と出逢いたい。ショーウインドウに飾られたツリーの頂きに輝く星に、彼女は祈った。
真木野優は、アルバイトをしながら一人前の俳優を目指している三十歳。今までに出演したドラマや舞台の役は、どれも冴えない役ばかり。台詞もほとんど与えられたことがない。彼の生活を支えているのは、乳製品の仕分け作業とスポーツクラブのインストラクターのバイトである。 クリスマスシーズンに合わせたファンタジー映画に出演した優は、珍しく台詞がある郵便配達の役だった。主人公にクリスマス・カードを差し出し、「今夜は雪が降りそうだね」とにこやかに微笑む。そして、灰色の空を仰ぐのだ。ようやく掴んだ映画出演。巨大なスクリーンに映る自分に照れながらも、まわりの観客に、「あれ、俺ですよ!」と教えたい気分だった。 この日は、出演映画を三度も観た帰りで、優は一時の誇らしさに満たされていた。まるで自分が主演したように足取りが軽く感じられた。 しかし、昨年の冬は、俳優を辞めようかと悩んでいた。諦めを含んだ深いため息は、冷たい外気で凍り、そのままアスファルトに崩れてしまう。まるで薄いガラス製の水差しが、彼が歩くたび虚しく地に落ちるような音を立てて。
刺々しく凍っている通りに暖かな光の帯を落としている小さなレストランが、優の目に止まった。リースが飾られている入り口には、『透明な苺』と描かれていた。優はカウンター前のスツールに腰掛け、チョコレートリッチココアを注文する。チョコレートのこくのある甘さとココアのすっきりとした苦みが熱いミルクに溶け合っている。一口含むと、なめらかな甘さが広がり、その後でしっかりとした苦みもある。冷え切って痛いほどの肌を内側から暖めてくれる。 通りは、酔客で溢れた安いバーのように奇声を上げる人々が緩慢に流れている。閉店した向かいの店舗の両脇には自動販売機が設置されており、真夏の街灯に群がる虫のように若者が座り込んでいる。シャッターの前に佇む女性は、ニューヨークでよく見かけるカラースプレーで落書きされたアートのように微動だにしない。優は温かなココアで一時のクリスマス気分を味わう。
天気予報では、ホワイト・クリスマスになると言っていたが、見上げれば雲ひとつない明るい夜である。裕福な女性の濃紺のコートを飾る宝石のような星が、夜空に瞬いている。街さえも特別な夜にふさわしくオパール色に瑞々しく輝く。そんな華やかな通りを独りふらふらとさ迷っている少年がいた。紫色に染まった頬を片手で隠し、酷く心細い顔をした相沢翔馬である。 十二歳の自分には帰る場所がない。それが虐めぬかれた痛みより辛く感じられる。潰れそうに視界が狭くなった右目は、継父に殴られたばかりで、内出血で膨れ上がり、滲む血が涙を赤く染めるほどである。幼い身体を覆うのは、擦り剥けた皮と着古された服。クリスマスの街並みには似合わない格好だ。時折、浮浪者が彼らのねぐらのダンボールを指差して、「休みな」と誘う。その度、翔馬は見てはいけないものを見たように慌てて頭を振り逃げ去るのだった。 他界した実父は、泥酔した二十歳の青年が運転する車にはねられた。両手には息子のバースディプレゼントとケーキが固く握り締められていたという。翔馬が小学生になり初めて迎えた真夏の誕生日の出来事である。 割れた肌から滴る血が凍るほど翔馬は冷え切っていた。継父の暴力に耐えかねて家を飛び出してしまったが、身を寄せる場所などなく、年末の街は酔っ払いと浮浪者でごった返した墓場の酒宴のようである。 イブの夜、翔馬の家ではこの秋に生まれた妹のことばかりが話題になっていた。 ツリーの下に置かれたプレゼントについ触れてしまった翔馬に怒った継父は、彼の腹を猛牛のように高く蹴り上げた。自分の身体の軽さに驚いている間もなく、床に落ちるなり、骨が折れる音が頭蓋骨まで響きそうなほど殴られ続けた。その上、継父はロープを押入れから取り出し、翔馬を柱に括り付けると叫び始めた。楽しそうなイブの食卓を空腹な少年に見せつけようと思ったのだ。 翔馬は生命の危機すら感じ、部屋中を逃げ回った。ベビーベッドで寝ていた妹は怒りに満ちた空気を読み取り、連続して破裂する風船のように泣き始めた。 「翔馬!逃げて!」 玄関を指差し、憎しみに支配された継父を必死で食い止めながら、母は大声で叫んだ。継父の顔や首筋、振り上げた拳には、怒りに満ちた無数の血管が浮き上がり、ドクドクと脈打っていた。 テーブルには美味しそうなご馳走とケーキがあった。もしかしたら、今年も母が密かにプレゼントを用意していたかもしれない。 「翔馬は良い子だから、サンタさんがそっと渡しに来てくれたのよ」 そう微笑んで、母は毎年、継父の目を盗んで、息子に赤と緑のリボンで包装されたプレゼントを差し出した。 「ねえ。サンタさんって亡くなったお父さんに似ていた?」 尋ねると母は困惑の色を隠せずに、「ええ、そうね。とても似ていたわ。身体の大きなお父さんに」と、答えた。 帰ろうか?自分の来た道を振り返ると、そこには母の笑顔はなく、怒りで周りの空気を震わす恐ろしい形相の鬼しか見えなかった。 翔馬は『透明な苺』の向かいにある百円ショップの前に座り込んだ。目の前の小さなレストランが明るく、眩しく見える。飾り窓には、ガラス製の苺、葡萄、林檎などが置かれてあり、ツリーが放つ無数の電飾を受け、真夏の湖面のように輝いている。まるで清水で作られたみたいに透き通っている果実たち。 薄汚れた少年を不憫に思ったのか、何処からか浮浪者がやって来て、形の崩れた白い箱からケーキをひとかけら取り出し、翔馬に差し出した。彼が困惑していると、「ホレ、ホレ」と受け取るように催促する。俯いて視線を逸らした翔馬の手を浮浪者は強引に掴み、彼の手の中に甘い匂いを擦り付けるようにケーキを押し込んだ。
待ち合わせ時間になっても現れない男に苛立つ保奈美。独りになりそうなイブとバースディを受け入れ、帰ろうとした時、隣で形の崩れたケーキを掌に載せ、戸惑っている少年が目に入った。 (この子も浮浪者だろうか?) 保奈美は鼻腔を突き刺す甘酸っぱい匂いに目を逸らすことが出来ず、つい声をかけた。 「どうしたの?こんな時間に独りで」 不意に声をかけられ、翔馬はどう答えてよいか分からずに戸惑う。ただ、掌に置かれたケーキを見ているしかなかった。 「ねえ。そのケーキも美味しそうだけど、もし良かったら、お姉さんと一緒にあの店で休まない?私ね、約束破られたみたいなの」 保奈美はバッグからハンカチを取り出し、ケーキをそっとのせて通りへ置いた。歪なケーキは、レースのついたハンカチの上で少し美味しそうに見えた。 「ねえ、私とイブを過ごさない?」 保奈美は微笑んで翔馬の肩に手を回し、携帯電話の電源を切った。 壁際のテーブル席に二人は並んで座った。壁には暖色系の花のポストカードが数枚飾られている。卓上のキャンドルには火が点され、翔馬の顔の傷や痣をありありと見せつける。 「ここね、紫芋のケーキがあって、私、大好きなの。君もどう?それとも、チョコレートケーキのほうがいいかな?」 保奈美は丁寧にオシボリで翔馬の手を拭った。小さく硬い手。それに酷く冷たい。翔馬はずっと俯いたままで何も話そうとしない。 保奈美はマスターにクリスマス用のケーキはあるかと尋ねた。彼は保奈美の傍らで所在無さげに座っている少年に微笑むと、「ええ、ありますよ。お好みのケーキにクリスマスの飾り付けをしましょう」と応えた。 翔馬は、見ず知らずの人とレストランに居る不自然さとは裏腹に、どこか懐かしい気がした。母と二人で暮していた頃は、こんな風に壁際の席に座り食事をしたものだ。 翔馬には保奈美が冬空の下、咲いたまま凍っている薔薇のように見えた。そっと視線を投げると、彼女は柔らかな微笑みを返し、傷だらけの頬に外の寒さがまだ残る冷たい頬を寄せた。重ねた頬が薔薇色に染まり、静かに熱を帯びていった。
閉店時間が近づくにつれ、『透明な苺』で一時を過ごしていた客たちは、一組、また一組と華やかな通りへと姿を消していく。今宵、彼らの親密さがイブの夜を一層美しく彩るだろう。 優は閉店前の慌しさを感じつつも、椅子に根が生えたように動けずにいた。卓上のキャンドルの心細げな炎を見つめたり、小さな鉢植えのハーブに鼻を寄せたりして帰る時間を悪戯に引き延ばしていた。 一人暮らしのアパートには自分の帰りを待つ人も、初出演の映画の端役を喜んでくれる人もいない。独りで過ごすイブほど長く感じる夜はない。 優は手持ち無沙汰に透明なガラス製の林檎を掌で転がす。林檎には濁りのない綺麗な水がたっぷり入っており、中には赤い硝子粒がいくつも沈んでいた。ゆっくりと回すと半透明の硝子粒も見えた。その林檎は三種類あり、緑の硝子粒が沈んだものは、若い女と薄汚れた少年の卓上に、青いものはカウンターの端に置かれていた。 「マイナス・イオンを出す林檎です。側に置くとリラックスできますよ。レジで販売していますので良かったらどうぞ」 大きな生ごみの袋を両手に持ったマスターは、優しく微笑むと表に出て行った。ポケットに『Closed』のプレートを覗かせて。
マスターは沢村という。『透明な苺』の名の由来は、他界した息子が店内のオブジェの果物がお気に入りだったことからきている。それは硝子でできていて、息子は特に手にすっぽりと収まる苺が好きだった。今もその苺を握ると、息子の体温が伝わってきそうな気がする。生きていれば、体中傷ついたあの少年と同じくらいだろう。沢村は、店内の少年を懐かしそうに眺める。 陽炎が透明な炎のように揺れていた真夏の週末、妻と息子がショッピングをしていた時、麻薬中毒の二十代の男に刃物で刺された。男は上半身裸で意味不明な言葉を呟き、他の誰でもない彼らに向かって刃物をかざしたのである。二人とも喉を切られた。その上、男は妻に馬乗りになり、狂ったように突いた。男はそれでも足らず、たまたまその現場に居合わせた通行人たちにも襲いかかった。被害者は警察が駆けつけてくるまで増え続けた。紫を帯びた赤い血が、熱い路面に焼きつき、まるで重ね塗りした油絵の赤のようにいつまでも残っていた。 沢村が『レストランさわむら』という店名から『透明な苺』に替えたのは、妻と息子の死後一年が経ってからである。あれから五年が過ぎても悲しみは癒えない。忘れぬために、悲しみはあるのかもしれない。 沢村は、ゴミを置き、ドアを閉めた。すると何処から集まったのだろう、たくさんの浮浪者が二袋の生ゴミを奪い合い始めた。枝のような手を振り上げ、頭を小突き合い、転がっている空き缶を投げ合う。敗者たちは悔しそうに舌打ちする。勝者は口元に薄っすらと笑みを浮かべ、闇へと消えていった。毎晩繰り返されるこの光景に、沢村は嘆く。 「イブの夜だというのに」 年々増えつつある浮浪者に狼狽して。
懐かしささえ感じる贅沢な領域に飛び込んだ気分で、翔馬はクリスマスケーキを食べ終えると、保奈美にゆっくりと微笑み、満たされた声で「ごちそうさま」と言った。やがて、安らかな眠りが訪れ、翔馬は薄い瞼をそっと閉じた。居心地の良い彼女の膝枕で、翔馬は一時の安らぎを貪るように夢を見た。 翔馬は四,五歳の子供で、母親もまだ若く、二人で庭にあるもみの木にクリスマスの飾り付けをしていた。 すると、突然、空から光が射し、神様が舞い降りてきた。長い光の帯びを従え、神様は「お前の母さんを天国へ連れて行く」と言う。母の周りにはフワフワと踊る天使たち。ツリーのオーナメントが光を受けて輝き、辺りに色とりどりの光を放つ。その煌きの中、母はゆっくりと浮上する。 「お母さん、行かないで!」 大声で叫び、母のスカートの裾を掴み泣きじゃくる。それを見た神様は穏やかに微笑み、「強くなりなさい」と厳しさを含んだ声で静かに言った。 母はゆっくりと浮かび上がり、雲の切れ間に吸い込まれていった。一人残された翔馬は、全身の力が抜け、その場に泣き崩れる。零れ落ちる涙は若草に溜まる雨滴のように大粒で、翔馬の丸い頬の上を滑る。それは地上に触れた瞬間、宝石に変り、無数の煌きが翔馬の足元に小高い丘を作ったのである。 母親が去った後の空は、どこまでも広がる灰色の雲に覆われていた。翔馬は、自ら意思を持つように内側から光を放つ赤い宝石を手にした。すると、それはクリスマスケーキに姿を変えた。驚く翔馬の目の前で、宝石は次々と彼を惹きつける。黄色の宝石は暗黒を照らす星に、青い宝石は枯れた小池や噴水を再び満たす水に、緑の宝石は庭を埋め尽くす豊かな芝に、中には薔薇や林檎、翔馬の好きな苺、ずっと欲しかったゲームソフトや子犬に姿を変えるものまである。しかし、母を失った翔馬を魅了することは出来なかった。 翔馬は吸い込むようにして涙を止めると、空に向かって叫んだ。 「神様、どうかお願いです。僕のお母さんを返してください。光り輝く宝石ならば、いつか大人になり働けば手に入ることもあるでしょう。でも、お母さんだけは一人なのです」 翔馬は、命乞いをするかのように強く願った。母の姿が消え去った空を仰ぎ、何度も「お母さん、お母さん」と声を奪われるほどに叫んだのである。 すると、翔馬の足元に高く積まれた宝石やプレゼントは、照明を消すように次々と消えていった。そして、空に明るく輝いていた星の最後が消えた時、夜空が割れて光が放たれた。悲しみに支配されていた翔馬の瞳が、強い生命力で再び満たされる。 光は二人が飾り付けをしたツリーに降り注ぎ、その傍らには、父がいた頃のままの懐かしい笑顔で母親が立っていた。 小さな雪が一ひら一ひら風に舞い、何処からか鈴の音に似た静かな足音が聞こえてきた。母の胸に抱かれた翔馬は、その音が亡くなった父親のものであると気付いたのは言うまでもない。 「メリー・クリスマス」 父の懐かしく低い声が、翔馬の耳元で優しく響いた。光り輝くツリーの下で、暖かな聖夜を親子は過ごしたのである。
十八歳の春。優は俳優になるという夢を胸に抱き、単身上京した。小さな劇団に所属していた大学生の彼は、世界がまるで自分の登場を待っているかのように思えた。混み合う地下鉄も街も目に映るものすべてが輝いていた。木造建築の安アパートの一室で、友人と夢を語り、平凡を意味なく嫌い、そして競い合っていた。窓から見下ろした東京の広大な夜景や遊園地から放たれる賑やかな光の粒たちが、まだ現実を知らなかった優の幼い野望を奮い立たせた。 だが、今はどうだろう。遊園地の明かりは薄っぺらに感じる虚飾。ただ、うるさいだけの喚声。東京の人込みに押し流され、自分の存在さえ見失いそうになる孤独。どんなに大声を出し、自己をアピールしたところで、届きそうにない。例えば、誰かが一人この街から姿を消しても、何事も無かったように日々は進んでいくのだ。 冬の寒さで今にも力尽きてしまいそうなゴキブリが、三十歳の優である。玄関で凍えていると、家の主に見つかり、つま先で蹴られる。せめて命を奪わないから出て行けと言われ、執拗に嫌われる。その度に全身に力を入れ、掴めるものがあるならばしがみついて離さない。ここを出て行くわけにはいかないのだ。この温もりを手放すことは死を意味するのだから。 小さな映画出演だけが何よりの救いだった。それが今を支える誇り。 優は閉店時間を気にしつつも、携帯電話をポケットから取り出し、出会い系サイトに繋いでみた。 イブの夜に寂しい想いをしている人が、他にいるかもしれない。 『今から会ってくれる心優しい人は、いませんか?三十歳の男より。傍にいてほしい。』 入力、送信。お手軽な出会いでも出会いに違いない。優は、一つ大きく息をつき、深くソファに座りなおした。
地面を濡らしていた雪は、いつしか降り積もり始めていた。『透明な苺』は閉店時間を過ぎても明かりを落とすことはなく、柔らかな暖色の光が、雪で縁取りされた窓から零れている。通りはこの寒さのため、すでに閑散とし、残飯を漁っていた浮浪者も姿を見せない。すべてを覆い隠した闇の中、裸の木々の小さな電球が、金色の木の実のように輝いている。 サンタクロースが忙しく夜空を駆けている深夜、靴底を刺す冷たさに耐え、独り歩いている女性がいた。凍えた両手は誰かを探しているのか、宙を漂っている。衣服は乱れ、剥き出しになった肌は傷だらけ。まるでこの世に未練がある亡霊のようにさえ見える。 彼女は翔馬の母親・香織だった。家を飛び出した息子を追ってみたものの、彼が立ち寄りそうな場所も心の拠り所となる逃げ場も知らなかった。当てもなくさまよい、辿り着いたところは、夫が車に跳ねられた道路であった。 真夏の陽射しが容赦なく地を焼いていたあの日、街は干からびた果実と化していた。テレビでは熱射病で急死した人々を連日報道していた。 夫は血液がアルコールでできているような男だった。弱気なくせ、酒が入ると気が大きくなる。暴力を振るうことはないが、金銭感覚のずれた男だった。香織はそれでもこの厄介な存在に何かしてやれる自分が誇らしかったし、愛していた。心の何処かでこの状態が続けばいいのにとさえ思っていた。 しかし、愛すべき夫は息子のバースディ・ケーキを買いに行くと言い残して永遠に帰らなかった。硬直した彼の肉体から甘い酒の匂いがしてきそうだった。両手に握られていたというケーキとプレゼントを病院で受け取ると、香織の全身は涙になった。力なく床に崩れ、支えるものを持たない液体に。拭おうともせず、ただ彼の身体から流れ出たおびただしい血のように、涙は後から後から溢れ出した。 しかし、悲しみは一瞬で絶望に変った。死体から匂っていたのは酒ではなく、薬物だったのである。翔馬へのプレゼントは偶然通りかかった母子から奪ったものだった。香織は涙の抜け切った身体で呆然とそれを聞かされた。薬物で汚染された夫は、幻覚の中、生きていたのだ。 他人からケーキとプレゼントを奪った上、殺害し、無意味に通行人を殺傷した。駆けつけてきた警官の手を振り解き、道路に飛び出したところを、泥酔した男の運転する車にはねられた。 残された香織はその後どのように生きたのか記憶が定かでない。時々、夫のことを考えると、目の前の映像がプツンと消えて、思考が停止する。生活が成り立たず、翔馬が小学校に入学するまで実家に身を寄せていた。 今、こうして夫が逝った場所を見ていると、他人事のように思える。 (闇から降り続く雪が全てを覆い尽くしてくれたらいいのに。) 香織は静かにその場から離れ、再び息子を探しに商店街へと歩いた。 (翔馬は何処にいるのだろう。寂しさに耐え切れず選択した道は、間違っていたのだろうか?) 現在の夫は過去を受け入れ結婚したいと言ったものの、いざ生活を始めてみると、翔馬を蔑み、暴力的になってしまった。香織は再婚が正しかったのかという疑問を抱きながらも女子を出産した。娘を迎えると、翔馬は以前にも増して虐待されるようになった。 香織は冷え冷えとした街の何処かで翔馬が暖をとっていることを切に願った。
メールを通じて始まる恋に夢を抱いていた保奈美。携帯電話の先に誰かがきっと待っている。チャンスは無限に広がっている。そう頑なに信じていた。 が、実際はどうだろう。何かが決定的に違う男ばかりである。もう止めようこんなくだらないこと。そう思いつつも、毎晩のように出会い系サイトに繋いでしまう。今では完全に縛られ、生活の中心にさえなっている。 今宵、寂しさを埋めてくれる少年は、隣でココアを美味しそうに飲んでいる。赤いカップに描かれた雪だるまやツリー、教会、雪の結晶などを飽きることなく眺めている。チョコレートを口でゆっくり溶かすように、幸せな夢の余韻に浸っている愛らしい横顔。 閉店後もマスターは、明りを落とすことなく、イブの夜に寄り添う客たちを穏やかな笑みで見守っていた。 保奈美は携帯の電源を入れ、既に癖になったサイトにまた繋いでみる。すると、ある男のメッセージが目に止まった。 『傍にいてほしい』 その言葉が、まるで自分と同じ手に負えない孤独と闘っているように思え、彼女は急いでメールを打った。 『私で良かったら、傍に行きます。あなたは今どこにいるのですか?』 送信ボタンを押して、翔馬の髪に唇を寄せる。子供らしい日向の匂いが微かにした。 返事はすぐに返ってきた。 『透明な果物のオブジェがある小さなレストランにいます。ココアがとても美味しい』 保奈美は、林檎と葡萄の間に転がっている苺を手にした。何か素敵なことが起こりそうな予感がする。 『偶然ですね。私のテーブルの上にも透明な果物があります。チョコレートを溶かしたココアもある。あなたが居る店の名前はなんですか?』 保奈美は、携帯の先に広がる甘い夢を更に甘くしようとココアを注文した。 『僕のいる店の名は、『透明な苺』です。良かったら、今から会いませんか?』 保奈美は驚いて店内を見回した。すると、窓際のテーブルで携帯を持った男が目に止まった。彼も保奈美に気付いたらしく、携帯を揚げておどけたように指差した。そして、こくりと頷くと彼はゆっくりと席を立ち、にこやかに唇を開放した。 「はじめまして。優と言います」
雪が強く降り始め、音が吸収されたかのように静かな夜の街を香織は今もさ迷っている。すでに感覚さえなくなった足を気力で前に推し進めていたが、『透明な苺』の前で固まってしまった。
あの頃と店名は変っていたが、通り魔事件の被害者であるこの店の主は、テレビのニュースで号泣していた。誰かを恨もうにも、事件当日、加害者は死んでいたのだ。やり場のない怒りが涙となって溢れていた。 記憶は鋭利な刃となり、今再び香織を襲う。決して忘れることのないあの夏の日。熱風が生活の潤いすべてを奪い去ったあの忌まわしい事件。 (きっと愛し方を間違えていたのだ。可愛いあまり夫の変化を読み取れなかった。気付いてさえいれば、少なくとも関係の無い人々を巻きこむことはなかった。) 店主に気付かれないように立ち去ろうと背を向けた時、不意に呼び止められた。店内で香織に気付いた保奈美である。駆けてきた声が、嬉しそうに弾んでいる。 「翔馬君のお母さんじゃありませんか?翔馬君、店の前で疲れたように座っていたから、思わずお茶に誘いました。身体が傷だらけなので何か事情があるのだろうと思いましたが・・・」 誰が見ても何かしらの痛ましさを与える息子の姿に、香織は発すべき言葉を見付けることが出来ない。 「どうぞ中へ。翔馬君、きっと喜びます。さっき少し眠っていたのですが、お母さんって寝言を何度も言っていましたよ」 肩越しに息子を見ている香織を促すように保奈美は言った。 動けずにいる香織に気付くと、翔馬は喜びに満ちた顔で駆け寄って来た。 「お母さん!探しに来てくれたんだね!」 痩せた身体にしがみつき、深く息を吸い込む。冷たい雪の匂いの奥に温かく懐かしいミルクを翔馬は見つけた。 優も席を立ち、香織を中へ招く。 「さあ、どうぞ。ここにはとても美味しいココアがあるんですよ。冷たい孤独も悲しい現実もすべて溶かしてくれる甘くて少し苦いチョコレートリッチココアが」 香織に気付いた沢村は、驚きのあまり、卓上に置いていた透明な苺を床に落としてしまった。命を奪われた息子のお気に入りだった苺。息子の温もりと共に思い出を閉じ込めていた硝子の苺は、小さな音を立てて今割れてしまった。 通りに佇む疲れきった表情の香織は、人生の一切の喜びを無くしてしまった加害者の妻である。沢村は店内にいた息子と同世代の翔馬に目をやる。彼もまた何かしらの事情を背負っているに違いない。生々しい鮮血の残る頬や切り裂かれた衣服から覗く腕は、彼の生活をありありと見せている。 (彼らもまた闘ってきたのだな・・・。) 沢村は壊れてしまった苺の欠片をひとつ手に取る。が、そこにはもう温もりはなかった。 (もう二度と戻れないあの懐かしい日々を、痛みを伴い蘇るあの忌まわしい記憶を、この母子も共有しているのだ。) 沢村はかつて同じ場所で額に血を滲ませて土下座し、詫びていた香織へと歩み寄る。そして、儚い花びらに触れるようにそっと彼女の手を取り、微笑む。 「今夜はイブです。さあどうぞ中にお入りなさい。あなたのために温かいココアを用意しましょう」 その言葉に弾かれたように、香織の瞳から涙が溢れ出した。
おわり
|